憲法と安全保障
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 07:00 UTC 版)
警察予備隊本部課長時代、福知山市で水害が生じたときに駐屯地の司令が手続きを踏まずに独断で部隊を出動させる出来事があった。このとき後藤田は「実力をもった部隊の独断専行は絶対、許すべきではない」「こういうときこそ、将来のため、現在において厳しい躾をしておかなくてはならない」と、文民統制徹底の観点から厳しい姿勢で臨んでいる。 後年は安全保障や憲法の問題に関してはハト派寄りの発言が多いことで知られたが、憲法については「国のためにあるのであって、憲法のために国があるのではない」として野党や進歩的文化人と異なる見解を示している。 また、憲法第9条について問われた時、「いまのような国会答弁だと、自衛隊が認知されたような、されんような、そんな可哀想な状態で、命を捨てる仕事がどこにありますか、将来、国民が変えたらいいといえば、変えればいい」と自衛隊への理解や憲法改正の容認を示し、第二次世界大戦の当事者が存命の間は改正は時期尚早との認識を示しながらも、「書きすぎの感がある」「賞味期限がきているのではないか」とも述べていた。後藤田自身は1項については保持し、2項については交戦権を認めたうえで「領域外での武力行使は行わない」と明記すべきとの考えであった。すなわち、独立・自存のための自衛権は憲法以前の自然権としていずれの国でも認められるものであり、最低限の武力装置を備えておくのは当然であるが、海外派兵に関するあらゆる方便を排除するために海外での武力行使禁止を明示すべきであるというのが後藤田の基本的考えであった。統合幕僚長であった栗栖弘臣による「超法規発言」にも、「やむを得ざる栗栖君の選択だろうと思います」と述べている。晩年は社会の右傾化をより憂慮していたため、意図的にこれらの見解について発言することを控えていた。 日本国憲法そのものについては「生まれは決して良いとは言えない」「本来は占領終了直後に日本人の手によってつくり直すべき筋合いのものであった」としながらも、「人類が将来向かっていくべき理想を掲げている」とその意義を認めている。2005年5月14日に琉球新報社の琉球フォーラムにゴルバチョフとともに招かれた後藤田は「憲法と安全保障」という演題で講演し、「この憲法の理想をわれわれは守らなければいけない。守り抜きながら時代の変化に対応できなくなっている面を変えれば憲法改正というのはいいと、ここを忘れてもらいたくない」と述べ、現憲法の理想の堅持と現実に即した改正の両立を訴えている。 冷戦終結後は米軍への基地供与には消極的であり、日米安保条約を平和友好条約に変換すべきとの考えも持っていたが、普天間基地移設問題に関して岡本行夫から辺野古移設について説明を受けたときには否定も肯定もしなかった。一方で上述の琉球フォーラムでは、「戦勝国の軍隊がいつまでも敗戦国の中にあって、従来の基地を別の基地に新しく作るなんてことは、新しく作られる側の住民が賛成するわけないじゃないですか」「私は日本の立場というものをこの機会にこそ、アメリカに対して強硬に主張すべきだと思います。過去六十年間、日本は独立したといいながら、実際は半保護国の状態にあるのではないか」と述べている。 また、日本の情報機関については他国に比べて極めて貧弱であり強化すべきであるが、情報の収集・防衛に特化させ謀略は行うべきでないとの考えであった。
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