復興共和制とディアス時代(1867年-1910年)
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「メキシコの歴史」の記事における「復興共和制とディアス時代(1867年-1910年)」の解説
1857年憲法を軸に新たに打ち建てられた復興共和国では自由主義者が主導権を握ることになったが、自由主義者の中にも文民と軍人の二つのグループが存在した。フアレスに代表される文民は、フアレスを除いて概ね高等教育を受けた白人であり、理想主義的な傾向を有していたが、ディアスに代表される軍人は概ね高い教育を受けていないメスティーソであり、現実主義的な傾向が強かった。どちらも自由主義者達であり、メキシコの近代化=西欧化を図る点では同じであったが、この差異は近代化政策を実行する際の手段の差になって顕在することになった。 また、この時代にオーギュスト・コントの実証主義がガビノ・バレダによって導入され、当時のブラジル帝国と同様に以降半世紀に渡って実証主義は教育に影響を持ち、実証主義者の合言葉だった「自由と秩序と進歩」はメキシコの標語となった。実証主義的な理念により教育はカトリック教会から世俗化され、義務教育が導入され、「野蛮」とみなされたメキシコの土着文化やカトリック的な伝統は弾圧され、全国民にスペイン語教育と自然科学、数学教育を通した合理的な人間を生み出すような教育が行われたが、他方でこのような姿勢は非スペイン語住民であるインディオの言語や文化の弾圧にも繋がった。 マクシミリアン処刑後、フアレス政権は戦争によって膨張した軍備の削減に努め、大軍縮を実践した。経済面ではメキシコにおける資本主義の発展が目指され、外国資本の導入による国内開発が進み、1873年にはベラクルス=メヒコ市間を結ぶ鉄道が完成し、メキシコの経済空間に大きな影響を与えることになった。 1871年の大統領選挙では現職のフアレスと共に、フアレスの後輩であったセバスティアン・レルド・デ・テハーダとポルフィリオ・ディアス将軍が立候補し、フアレスが勝利したものの、1872年7月にフアレスが急死したためにレルドが大統領に就任した。しかし、1876年にはフランス干渉戦争の英雄ポルフィリオ・ディアス将軍がレルドの再選に反対して反乱を起こし、11月に反乱軍は首都を攻略した。ディアス将軍は1877年に選挙を行い、大統領に就任した。 ディアスは議会のレルド派や地方のカウディージョに特権を与えて体制に組み込むことによって軍事独裁体制を樹立し、自身による統治のみならず、傀儡大統領を据えて中央集権体制を確立することによって、軍事力を背景にした「ディアスの平和」とも呼ばれることになるメキシコ史上初の長期安定を実現した。 一方で、ディアスは実証主義を信奉するシエンティフィコ(科学主義者)と呼ばれるエリートを登用し、権威主義体制の下でフアレス政権から続いていた国家の近代化=西欧化が推進された。 この時期には積極的な外国資本の導入が行われ、工業化が進み、銀、銅、石油の開発を軸に進んだ鉱山の開発、鉄道の敷設、輸出作物用のプランテーションの建設などが外国資本によって行われ、経済は発展した。特に合衆国資本による鉄道建設は目覚しく、1876年に600kmであった鉄道の総延長は、1910年には約20,000kmに達した。 こうしてディアスは経済の発展や治安の回復を実現したが、他方で農村部は大きく疲弊し、労働者は困窮した。特に実証主義者が信奉した社会ダーウィニズム的な観点からインディオやメスティーソの文化への弾圧が進み、更に外国資本の進出による工業化やプランテーション大農園の成立によって、その多くは奴隷的零細賃金労働者としての厳しい生活を強いられることになった。このため、インディオの反乱や労働争議が相次いだが、それらの殆どは軍隊によって弾圧された。また、1892年の鉱山法によって地下資源の国家所有の原則が見直されると外国資本が鉱山開発に殺到し、1910年には国内の鉱山の3/4が外国人の所有となったように、経済の体質が非常に従属的かつ脆弱なものになった。 こうして独裁制の下での発展による都市部の人口増加や、社会矛盾は大きくなり、各地でゼネストが発生するなど、社会不安が増大した。そして、貧富の差の拡大により窮乏する民衆や社会不安などを背景にして、独裁制そのものに経済発展によって成立した中産階級から変革の声が上がり、やがて不満は革命となって爆発することになる。
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