彫刻と軽演劇の時代
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1915年(大正4年)3月26日、東京府東京市神田区塗師町5番地(現在の東京都千代田区神田鍛冶町1丁目7番あたり)に生まれる。父・金治、母・けいは金物商を神田駅東側の同地に営み、木俣は兄2人、姉3人を持つ末っ子の三男であった。次兄は母方の姓を継ぐ小田切治郎、長姉は画家・河村すの子(1899年 - 没年不詳)であり、その夫は構造社(主宰・斎藤素巌、1926年 - 1944年)に参加する彫刻家・河村目呂二(1886年 - 1959年)である。母方の伯父には陸軍中将・小田切政純(1866年 - 1940年)がいる。 両親は早々に亡くなり、木俣は旧制小学校の高学年から、姉の河村夫妻に育てられた。旧制中学校に進学したが、17歳になる1932年(昭和7年)には家出をしており、工場に働きながら彫刻を志し、日本美術学校(現在の日本美術専門学校)彫塑科に通う。1935年(昭和10年)に同校を卒業するまでの間、朝鮮京城府(現在の大韓民国ソウル特別市)の次兄の家に居候した時期もあった。同年、構造社の展覧会に彫刻作品を出品、入選する。1936年(昭和11年)には国画会、造型彫刻家協会に出品、入選した。同年、池田義信の私的書生になり、池田の妻・栗島すみ子が座長を務めた劇団の文芸部員になる。このころ作家の高見順、笠井峯(のちの山茶花究)らと親交を結ぶ。舞台に上がったときの芸名を「衣恭介」と名のった。 1938年(昭和13年)4月10日に発行された『週刊朝日』に掲載された高見順の短篇小説『大部屋の友』に登場する浅草のレビュー役者は、この時代の木俣をモデルとしている。同作は同年に春陽堂書店が刊行した『新小説選集 第10巻』にも直ちに収録され、戦後1964年に講談社が刊行した『高見順文学全集 第1巻』にも収録された作品である。1939年(昭和14年)の京城府滞在中に知り合った高橋那津子と結婚、同年12月27日、保田龍門に師事して彫刻に打ち込んでいた大阪府大阪市で長女・魔衣が生まれ、翌1940年(昭和15年)1月1日に結婚届と長女の出生届を同時に提出する。しかし間もなく風邪で長女は夭折、最初の妻・那津子も同年10月14日に死去した(満18歳没)。これを機に、同年、木俣は「堯喬」と改名する。 1945年(昭和20年)8月15日の第二次世界大戦終結後の秋、葉山瑛子と結婚する。1946年(昭和21年)9月25日には、長男・堯美(現在の和泉聖治)が誕生している[要出典]。次男・朝勝、三男・博揚を儲けたが、世田谷区豪徳寺の豪徳寺の「無名戦士慰霊記念碑」のレリーフ彫刻を手がけた1954年(昭和29年)には、離婚している。山崎真一郎に招かれ、東映京都撮影所の契約俳優になり、端役を務めながら彫刻に打ち込むことにし、京都市右京区嵯峨甲塚町1番地に転居する。1955年(昭和30年)5月15日、伊東和子と結婚する。
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