帆走フリゲート
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/24 13:47 UTC 版)
「フリゲート」という単語は「フレガータ」(fregata)を語源とする。これは地中海で用いられたガレー船であり、複数のマストと帆、多数の橈を備えた快速船の別称であったが、のちに転じて、広く快速の帆走軍艦を指すようになった。イギリス海軍初のフリゲートは諸説あるが、一般的には鹵獲したフランスの私掠船を模して建造され、1646年に進水した「コンスタント・ワーウィック」とされる。 どの程度の軍艦を「フリゲート」として類別するかは定見がなく、判然としない部分があるが、おおむね備砲24~40門程度のシップ型の軍艦がこのように称された。一般的に砲列甲板は単層で、甲板長は40メートル程度、排水量は1,000トン程度であった。また18世紀ごろに備砲の数による等級制度が整備されると、5等艦・6等艦がフリゲートとされるようになった。この時代のフリゲートは、勅任艦長(海佐艦長)が艦長に任ぜられる最小規模の軍艦であり、艦隊決戦では戦列には加わらずに通信の中継や損傷艦曳航などの補助的任務にあたっていた。特に快速力と高性能を活用した偵察・通報はフリゲートの独壇場であり、「艦隊の目」として若く有能な艦長が配される事が多かった。また決戦以外の場でも、敵国の船舶に対する通商破壊や、逆に敵の私掠船・通商破壊艦を撃退するシーレーン防衛により、多くの戦歴が記録された。特に敵船の拿捕に成功すれば捕獲賞金の分配があり、海軍将兵としての薄給を遥かに上回る収入を一気に得ることができたことから、フリゲートへの乗り組みは海軍将兵の憧れの的であった。腕の良い艦長であれば年収250年分の捕獲賞金を得た例もあったとされるが、逆に捕獲賞金に釣られた艦長が商船狩りに熱中して作戦をなおざりにした例もあり、大局的見地からは弊害も少なくなかった。 フランス革命戦争・ナポレオン戦争を通じて、フリゲートの大型化・火力強化が進められた。例えばイギリス海軍では、1794年の時点では12ポンド砲搭載の32門艦と28門艦が多数を占めていたが、1814年の時点では18ポンド砲を主砲とした38門艦と36門艦が主力となっていた。またアメリカ海軍は、1794年の再設立以降は戦列艦を持たなかったこともあって、24ポンド砲を主砲とする44門艦・36門艦と、他国よりも重武装・大型のフリゲートを主力とした。折からの英海軍の慢性的な乗員不足による戦力低下もあって、独立戦争・米英戦争ではイギリス海軍のフリゲートに対して優位に立った。 19世紀に入って舶用蒸気機関が普及すると、1839年進水のイギリス海軍「サイクロプス」を端緒としてフリゲートにも導入され、機帆船の時代となった。当初は外輪船の方式であったが、舷側砲の設置を妨げるうえ、クリミア戦争において攻撃に対する脆弱性が露呈し、まもなくスクリュープロペラによる推進が主力となった。しかしこのように帆から推進機に変わっていく流れの中、帆装に基づく従来の類別法とは異なる名称が望まれるようになり、イギリス海軍では1875年進水の「シャノン」を端緒として「巡洋艦」という名称が使われるようになり、1878年には、既存のフリゲートとコルベットは巡洋艦に類別変更された(旧来の艦種呼称も1880年代までは公文書で用いられていた)。フランス海軍でも1882年進水の「ヴォーバン」は巡航鋼鉄艦(Cuirassé de Croisière)と称され、「フリゲート」の名称は使われなくなっていった。
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