山車とお囃子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 02:38 UTC 版)
町名写真お囃子備考元能見北町城北町柿田町 喜撰・丹前・徳川・追廻(4曲) 1台の山車を元能見北町、城北町、そしてかつて氏子だった柿田町の3町が共同所有している。2017年(平成29年)までは元能見北町が4年に2度、城北町が4年に1度、柿田町が4年に1度の割合で交替して山車曳きを行っていた。 1956年(昭和31年)、町割変更により山車を2両保有することとなった材木町が、当時の元能見北町と元能見西町に譲り渡したものである。舵取り装置を持たないため、豪快な曳き回しが見られる。 3町でお囃子は共通。子供囃子。 能見北之切 つくな・手習子・徳川花・能北囃子・日清本業・宮神楽・あばれ(9曲) 明治中期より保有していた高層式山車の前山と彫刻などを利用して、1956年(昭和31年)に建造したものである。 壇箱の裏に「尾州名古屋 末廣町彫刻師 瀬川治助 重定 花押 (略) 文政五年 壬午 六月吉日」と墨書されている。瀬川治助(重定)は山車彫刻を多く手がけた江戸時代の彫物師(1770年頃 - 1850年)。矢作3区の山車彫刻も手がけている。子の重光は二代瀬川治助を名乗った。 子供が少ないため、現在は大人囃子である。 能見中之切 鞍馬・六法・徳川天神・正調(5曲) 「能中」と染められた見返幕は1864年(元治元年)の作。幕の裏に「干時 元治元年 甲子四月大吉日新調之」と墨書がある。 江戸期に山車を所有していたと推測され、1953年(昭和28年)、現在のものが総ヒノキで建造された。 一時期、運行しやすいように車輪が取り付けられていたが、現在は当初の形に戻されている。 能見南之切 本経・天ドロ・千代の舞(3曲) 神明宮の山車の中で一番古いとされる。 江戸時代から有った山車に市電開通により電線にかかるという理由から、1917年(大正6年)に他所から購入した山車と組み合わせて山車の改造がなされた。 山車前山の柱には龍の彫刻がある。龍の眼を見せると雨が降ると伝えられるため、眼の部分にはさらしが巻いてある。12年に1度、辰年に「昇龍開眼の儀」(さらし巻替)が行われる。 前山の御簾は1811年(文化8年)に製作された事から前山部分は、200年以上経っている事が判る。 材木二丁目 小鍛冶、あんぱ、正札(3曲) 天井には、彩色四季花鳥図とともに墨絵の龍が描かれている。そこには「大正四年乙卯年喜日 畔柳渓」と署名があり、天井画製作と山車小屋の落成が同年であることから、山車自体の建造も1915年(大正4年)であろうと推測される。 2015年(平成27年)の大年番記念のために、車輪取替と屋根改修を行った。 松本町 軒すだれ・夜神楽・醒ヶ井・浅妻楠公・松本はやし・鞍馬(7曲) 1960年(昭和35年)、浜松市の大工棟梁平野孝によって建造された。彫刻は岡崎市康生町の彫刻師・江坂兵衛によるもの。 なお、かつて松本町が所有し1909年(明治42年)に売却したとされる山車は現在、岡崎市樫山町の須賀神社に格納されている。4月第2日曜日の須賀神社大祭において庄野組の山車(鳳凰山車)として町曳きされる。 お囃子はかつては芸妓連が行った。現在は子供が中心。 元能見中町 夜神楽・箱根・丹前徳川・喜撰・追廻(6曲) 1951年(昭和26年)、地元の大工によって、底抜け屋台を元に花車を建造。それをさらに改良して、1957年(昭和32年)に白木の山車が作られた。 町内の道が狭いため、他の町に比べ小さめの山車である(長さ430cm×幅230cm×高さ330cm)。 お囃子は、三味線と笛を大人が行い、大太鼓、小太鼓、鼓、鉦は子供が担う。 元能見南町 元禄・桃太郎・楠公正札・鞍馬・官女月の巻・十日戎・徳川・俄獅子(10曲) 1958年(昭和33年)、自町に住む者によって建造された。総白木造り。金釘は使用されていない。 格天井中央に直径45センチの巻龍の彫刻が施されている。 長唄風のお囃子で、1960年(昭和35年)~1979年(昭和54年)の間は青年会と芸妓連で囃子を運営し、祭りの名物でもあった。 お囃子は大人で構成されている。
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