宗利以降の時代とは? わかりやすく解説

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宗利以降の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 05:34 UTC 版)

宇和島藩」の記事における「宗利以降の時代」の解説

宗利の時代36年間に及び、秀宗・宗時時代の統治踏襲して制度整備充実図った。この時代後世模範になったとされているが、一方で日照り落雷洪水大火土佐藩吉田藩との境界線争いなどが相次ぎ貞享4年1687年)頃には藩財政逼迫して衣服食事粗末にし、元禄元年1688年)には5か年計画立てるに至った元禄6年1693年11月、宗利は宗贇に家督譲って隠居した第3藩主宗贇は仙台藩第3藩主伊達綱宗三男で、宗利の婿養子である。元禄9年1696年7月吉田藩分知で7万石になっていた宇和島藩高直が行われて再度10万となった。ただしこれは、藩や商人進めていた新田開発収穫のない荒田まで加えて無理矢理10万石にしたようなものであり、しかも幕府普請役では10万石格を負担しなければならなくなり湯島聖堂造営等により藩財政はますます逼迫した。 正徳元年1711年)に宗贇は死去し三男年が第4代藩主となる。この時代には旱魃飢饉風水害続き藩札発行被災者救済植林植樹から、難民の緊急雇用対策のための土木事業倹約令人材登用など様々な藩政改革試みられたが、肝心年が享保20年1735年5月31歳急死した。 第5代藩主候はの子で、在任60年間の長期わたった中興の祖である。寛保3年1743年)に倹約令発し藩政改革乗り出した学問・武芸奨励し寛延元年1748年)に藩士庶民共学藩校内徳館(のちの明倫館)を開いたまた、木蝋を藩の重要産品とし、紙を専売とした。さらに農政改革をはじめ、博打好色禁止役職勤務見直し風俗矯正奢侈禁止から租税改革など大規模な藩政改革行なった。これらの改革成功したが、天明の大飢饉により藩は深刻を極め疲弊した藩では一揆村方騒動が相次ぎ、その最中寛政6年1794年9月候は死去した。なお、死去前年吉田藩で紙の専売めぐって武左衛門一揆起こり一揆解決宇和島藩当たっている。 第6代藩主にはの子寿が就任し有能な藩士登用倹約令歳出抑制商品作物栽培養蚕等による歳入拡大被災救済などを中心とした藩政改革行った。だがこの時代にも風水害が8回、旱魃1回天災相次いだ。また文化9年1812年)には萩森騒動呼ばれる財政再建をめぐる重臣意見の対立から刃傷事件発生している。さらに文化5年1808年)夏に伊能忠敬宇和島入って測量行っているが、この伊能一行接待幕命によりかなり大仰に行われ宇和島かなりの負担をかけ、藩も領民不時出費大い苦しんだといわれている。

※この「宗利以降の時代」の解説は、「宇和島藩」の解説の一部です。
「宗利以降の時代」を含む「宇和島藩」の記事については、「宇和島藩」の概要を参照ください。

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