宗利以降の時代
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宗利の時代は36年間に及び、秀宗・宗時時代の統治を踏襲して諸制度の整備充実を図った。この時代は後世の模範になったとされているが、一方で日照り、落雷、洪水、大火、土佐藩や吉田藩との境界線争いなどが相次ぎ、貞享4年(1687年)頃には藩財政が逼迫して衣服や食事を粗末にし、元禄元年(1688年)には5か年計画を立てるに至った。元禄6年(1693年)11月、宗利は宗贇に家督を譲って隠居した。 第3代藩主宗贇は仙台藩の第3代藩主伊達綱宗の三男で、宗利の婿養子である。元禄9年(1696年)7月、吉田藩分知で7万石になっていた宇和島藩は高直しが行われて再度10万石となった。ただしこれは、藩や商人で進めていた新田開発や収穫のない荒田まで加えて無理矢理10万石にしたようなものであり、しかも幕府の普請役では10万石格を負担しなければならなくなり、湯島聖堂の造営等により藩財政はますます逼迫した。 正徳元年(1711年)に宗贇は死去し、三男の村年が第4代藩主となる。この時代には旱魃・飢饉・風水害が続き、藩札の発行と被災者の救済、植林・植樹から、難民の緊急雇用対策のための土木事業、倹約令、人材登用など様々な藩政改革が試みられたが、肝心の村年が享保20年(1735年)5月に31歳で急死した。 第5代藩主村候は村年の子で、在任60年間の長期にわたった中興の祖である。寛保3年(1743年)に倹約令を発し、藩政改革に乗り出した。学問・武芸を奨励し、寛延元年(1748年)に藩士と庶民共学の藩校・内徳館(のちの明倫館)を開いた。また、木蝋を藩の重要産品とし、紙を専売とした。さらに農政改革をはじめ、博打や好色の禁止、役職勤務の見直し、風俗矯正や奢侈の禁止から租税改革など大規模な藩政改革を行なった。これらの改革は成功したが、天明の大飢饉により藩は深刻を極め、疲弊した藩では一揆や村方騒動が相次ぎ、その最中の寛政6年(1794年)9月に村候は死去した。なお、村候死去の前年に吉田藩で紙の専売をめぐって武左衛門一揆が起こり、一揆の解決に宇和島藩が当たっている。 第6代藩主には村候の子村寿が就任し、有能な藩士の登用、倹約令と歳出抑制、商品作物栽培や養蚕等による歳入拡大、被災民救済などを中心とした藩政改革を行った。だがこの時代にも風水害が8回、旱魃が1回と天災が相次いだ。また文化9年(1812年)には萩森騒動と呼ばれる財政再建をめぐる重臣の意見の対立から刃傷事件が発生している。さらに文化5年(1808年)夏に伊能忠敬が宇和島に入って測量を行っているが、この伊能一行の接待は幕命によりかなり大仰に行われ、宇和島にかなりの負担をかけ、藩も領民も不時の出費に大いに苦しんだといわれている。
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