声と役柄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/20 14:04 UTC 版)
リザネクの声は、特定の役柄において、スピント・ソプラノとドラマティック・ソプラノの声にまたがっていた。 彼女の声は、ドイツ・オペラでは若々しいドラマティック・ソプラノ(jugendlich-dramatisch)の上端とドラマティック・ソプラノの範疇に位置していたが、イタリア・オペラの基準ではもっぱらドラマティック・ソプラノであった。通常の上の「ド」の音では、時折ふらつくイントネーションと乾いた音が聞こえる時もあったが、五線譜の上では20世紀の最も華々しい音色の1つが花開いた。リヒャルト・シュトラウスのオペラにおける高音の持久力は伝説的である。 彼女は特にリヒャルト・シュトラウスの音楽に優れていた。『影のない女』 皇后や、『サロメ』タイトルロール、『ばらの騎士』元帥夫人、『エレクトラ』クリュソテミスとして成功を収めた。 彼女は『ナクソス島のアリアドネ』アリアドネ/プリマドンナや、あまり演奏されない『エジプトのヘレナ』や『ダナエの愛』の主役を歌うこともあった。しかし、自分の領分を踏み出すことには慎重で、46歳の1972年まで『サロメ』に挑戦しなかった。一方で20代前半から62歳まで、ジークリンデ役には取り組み続けた。彼女はワーグナー『トリスタンとイゾルデ』は完璧に適役だろうという周囲の思惑にもかかわらず、イゾルデ役のオファーを避け続けた。この理由については「カール・ベームの芸術とレコード(1983年、芸術現代社刊)」における彼女の寄稿文によると「嘗て私はベームの指揮でコンサートを歌った事があります。それはニューヨークにおける国連の記念演奏会です。プログラムには『亡くなった母が』と『愛の死』が含まれていました。私がこれ迄に『トリスタンとイゾルデ』のこの場面を歌った唯一の機会です。私にしばしば夢の様な役イゾルデを舞台の上で歌う様に申し入れがあったのですが、ベームは私にそれを引き受けるのを思いとどまらせたのです。その理由は、私の声があまりにもドラマティックになって、皇后、アリアドネ、デズデモナなどの役を歌えなくなるのを心配してくれたからです。私が今でも歌っていられるのは、明らかに彼のその忠告のお陰であると感謝しています。」とのことである。彼女は1950年にインスブルックで『ワルキューレ』ブリュンヒルデを歌っているが、この役に戻ることもなかった。彼女はインタビューで、同僚のビルギット・ニルソンへの大きな尊敬心が、それらのソプラノの役を回避した要因なのだと述べている。 驚くべきことに、彼女は『ワルキューレ』の公演と同じ週に、ヴェルディ『リゴレット』ジルダとしても出演したことがある。このあまり知られていない偉業は、より頻繁に言及される『ワルキューレ』とベッリーニ『清教徒』を同じ週に演奏したマリア・カラスの偉業に匹敵する。 リヒャルト・シュトラウスのソプラノはプッチーニのオペラにふさわしい優れた声を出すことが多いため、リザネクはしばしば『トスカ』、そして何回か『トゥーランドット』を歌っている。 彼女はまた、ベートーベン『フィデリオ』で特筆すべきレオノーレを歌った。 ワーグナーにおいては、彼女はしばしば『タンホイザー』エリーザベトを歌い、『ローエングリン』エルザとオルトルートを歌った。彼女は20年にわたり『さまよえるオランダ人』ゼンタ役を「所有」していた。 しかし彼女が最も尊敬された役は、リヒャルト・シュトラウスの元帥夫人とクリュソテミス、さらには『ワルキューレ』ジークリンデであった。 このような、力強く、よく計画され、表現力豊かな声のため、彼女は多くのヴェルディの主役を歌うことも許された。特に『オテロ』デズデモナ、マクベス夫人、『仮面舞踏会』アメリア、『ドン・カルロ』エリザベッタ、『運命の力』レオノーラ、および『アイーダ』などである。彼女はまた、1960年にメト初の『ナブッコ』でアビガイッレを歌った。彼女はこの役が自分にふさわしくないことに気付き、シーズン中に何度何度も歌唱し続けることで声の危機に陥ったが、そこから彼女は首尾よく回復した。リザネクの声の全体的な性質は、1959年にレコーディングされたマクベス夫人で特に明らかである。そのとき彼女は33歳で全盛期を迎えていた。低音域では若干空虚ではあるが、高音域では揺るぎない能力を伴ってそそり立つドラマティックな力と組み合わさり、マクベス夫人の高音域でのコロラロゥーラを操る高い能力を備えている。 オーストリア人そして中欧人として、リザネクもロシア(チャイコフスキー)、チェコ(スメタナ、ヤナーチェク)など、スラブ諸国の音楽に興味を持っていた。 歌手の負担が大きいことで有名な「5大ソプラノ」の役のうち、リザネクは『トゥーランドット』を歌い、メト、ウィーン、バイロイト音楽祭で『パルジファル』クンドリーの成功を喜んだ。彼女が歌い始めたときは、キルステン・フラグスタートは存命中であり、ビルギット・ニルソンとアストリッド・ヴァルナイのヴォーカル能力のピーク時であった。リザネクはワーグナーのイゾルデや、『ワルキューレ』『ジークフリート』『神々の黄昏』いずれかのブリュンヒルデのどれかを歌いたいとひそかに思っていた。しかし、1981年に、カール・ベームは歌劇場のライヴ公演ではなくユニテル映画(音楽はスタジオで録音したもの)で『エレクトラ』を歌うよう彼女を説得した(監督はゲッツ・フリードリヒ)。 1980年代から1990年代にかけて、多くの「偉大な」ソプラノ歌手のように、徐々にメゾの領域に入り、ドラマティック・メゾソプラノ役、例えば『サロメ』ヘロディアス、『エレクトラ』クリュテムネストラ、ヤナーチェク『イエヌーファ』コステルニチカ、『カーチャ・カバノヴァー』カバニチャ、『パルジファル』クンドリー、『ローエングリン』オルトルートなどを演奏した。 指揮者のジェームズ・レヴァインは、「彼女は自分の中に常に炎を燃やしていた。このような激しさと、このような回復力と音域のある声を兼ね備えた人間がいるというのは、驚くべきことだ」と述べている。
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