壮麗王の時代と建築家スィナン
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「オスマン建築」の記事における「壮麗王の時代と建築家スィナン」の解説
ミマール・スィナンは、スレイマン1世による帝国最盛期のオスマン建築を代表する建築家である。彼は非イスラム教徒の家庭(ギリシア系と言われる)に生まれたとされるが、デウシルメ制度によって徴集されてイスラームに改宗し、イェニチェリ(常備歩兵軍)の工兵隊に入隊した。やがて建設の才能が認められて近衛騎兵隊に取り立てられ、1538年に帝室造営局長に任命されて、以後宮廷建築家として才能を発揮した。彼は、ほぼ同時代に生きたミケランジェロ・ブオナローティと比肩しうるほど非凡な才能を持った革命的建築家であった。それまでのオスマン建築が様々な形態を寄せ集め、結果的に曖昧な空間になっているのに対し、スィナンはそれを論理的に組み立て直し、全体を調和したものに変えてしまった。オスマン建築は、彼によって完成の域に達したのである。 スィナンのはじめての大きな仕事はシェフザーデ・ジャーミーの設計であった。このモスクはエディルネのバヤズィト2世のモスクのプランを下敷きにしているが、四方に半ドームが付け加えられた集中的な性格が強いもので、絶妙のバランス感覚の上に建設されている。スィナン自身はこれを習作とするが、そのプロポーションは完成度がかなり高い。 1550年に、スィナンは代表作となるスレイマニィエのキュッリイェの建設工事の命を受けた。イスタンブールの7つの丘のうち、斜面から金角湾を望むうちのひとつが敷地として選ばれ、中心となるモスクには高い記念性を要求されることになった。スィナンはシェフザーデ・ジャーミーを元にしたプランを計画したが、半ドームを四方ではなく前後の2辺に設置することによってアヤソフィアに近い構成にしている。しかし、アヤソフィアがギャラリーを持つことによって一定の方向性を持っているのに対し、スレイマニィエ・ジャーミーではギャラリーを廃して広々とした空間を演出している。また、内部空間の完成度の高さの割に、アヤソフィアの外部は比較的無頓着であるが、スレイマニィエでは内部の空間を形成するボリュームが外部立面で上手く調和し、完結している。 スィナンは生涯において多くの建築を設計したが、その最晩年の建築となるのが、エディルネのセリミィエのキュッリイェである。彼自身が最高傑作と称するモスクは、ドームの直径が31.28mに達する巨大なもので、平面はほとんど点対称である。構造的にも素晴らしく、ドームは8本の円柱とそれらに渡されたアーチによって支えられ、これをフライング・バットレスが支えることによって広大な内部空間を形成する。開口部もふんだんに穿たれており、内部は非常に明るい。キュッリイェの他の施設は、モスクに付随する2つの建築物に収められており、全体のプランは完全な対称性を保っていた。 スィナン没後、帝室モスクはそのデザインの源泉をスィナンのあらゆる建築の中に求めたが、決して彼の想像を超える建築物は造られなかった。イェニ・ジャーミーはスィナンの後継者であるダウト・アーによって設計されたが、彼は1599年に処刑されてしまい、1633年に完成したこのモスクは、スィナンのものと比べるとその構成はかなり見劣りするものとなった。 スィナン以後のモスクで最も有名なものはスルタンアフメト・ジャーミーで、国際的にはブルーモスクの通称で知られる。これは1609年にメフメト・アーによって設計されたもので、彼はイスラム教徒ではなく、西ヨーロッパ生まれでのキリスト教徒であった。ブルー・モスクは今日、イスタンブールの観光名所として名高い。内部空間には広がりがあり、ステンドグラスによる淡い光とイズニック・タイルの装飾は非常に美しい。
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