在英国大使として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 18:12 UTC 版)
「ジョセフ・P・ケネディ」の記事における「在英国大使として」の解説
1938年、ルーズベルトはジョーを在英国アメリカ合衆国大使に任命した。これはもっといいポストを望んでいたジョーと、いいポストにつかせたくないが、かといって手元においておかないのも不安なルーズベルトの思惑が一致したものであった。3月1日、ジョーはアイルランド系として初めての在英国大使として意気揚々とイギリスに乗り込んだ。当時のイギリス首相はネヴィル・チェンバレン、彼は勢力を拡大しつつあるアドルフ・ヒトラーに対して宥和政策で対応しようとしていた。マスコミの操縦法を熟知していたジョーは「大家族の父」というイメージを振りまき、イギリスで好評のうちに迎えられた。ジョー自身も宮廷や貴族たちと付き合う優雅な大使生活に満足した。子供たちもイギリスの生活になじんでいた。特に次女の「キック」(キャスリーン)はイギリス貴族ウィリアム・ロバート・キャベンディッシュ候と意気投合し、周囲の反対を押し切って1944年に結婚するまでになる。 ジョーは大使としてチェンバレンの宥和政策を支持し、ヒトラーの政策に理解を示した。ジョーはアメリカの孤立主義の堅持と、ヒトラーへの譲歩のみが破滅的な世界戦争を免れる唯一の道であると信じて疑わなかった。ナチスがユダヤ人を殺害しているという報道がされるようになっても、まだ個人的にヒトラーと会見して状況を好転できると考えていた。またケネディはアメリカがイギリスに武器を供与することに徹底的に反対していた。アメリカ大使でありながらナチス支持の発言を続けるジョーは、英国のみならずアメリカ本国でも人々から眉をひそめられる存在になっていた。さらに、ドイツが英国本土の空襲を始めると、王室と政府関係者はロンドンから動かないことを宣言していたが、ジョーはさっさと郊外に避難して英国民の失笑をかっていた。また、ジョーはこの時期、チェコスロバキアの危機を利用して、証券の空売りによって2万ポンドを不正に儲けたと非難されている。1941年10月、アメリカに戻ったジョーはルーズベルトの依頼を受けて、彼の三選を支持するラジオ演説を行っている。ジョーは自分がいずれホワイトハウスに入るという野望を持っていたが、それを自ら打ち砕く事件を起こす。 「民主主義はイギリスでは死んだ。アメリカにはまだあるかもしれない。」1940年11月10日のボストン・グローブ紙日曜版にのったこの談話がジョーの政治家生命に終止符をうつことになった。電撃戦でナチスが欧州を席巻していたこの時期、ジョーはインタビューに答えて次のように語っている。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}次の六ヶ月が重要だ。英国に武器を供与する最大の目的はとにかく時間を稼ぐこと、準備する時間を稼ぐことだ。イギリスは別に民主主義のためにナチスと戦っているのではない、ただ自己保存の戦いをしているのだ。もちろん私たちも参戦すればそうなる。私は誰よりヨーロッパの情勢を知っている。人々にそれを知らせるのが私の仕事だ。 —Boston Sunday Globe of November 10, 1940 この記事は国民的批判を巻き起こした。これが決定打となり、ルーズベルトはこれ以上ジョーを大使にとどめておくことは不可能と判断。1940年11月、ジョーは2年9ヶ月で辞任に追い込まれ、政治家としての生命を絶たれた。その腹いせにジョーはサマセット社がボストン・グローブ紙に出していた広告を中止し、同社は大きな広告収入を失うことになった。 政界を離れたジョーは不動産投資の仕事に専念するようになったが、依然として大きな影響力を持つジョーの存在をルーズベルトは警戒していた。戦争中にジョーはカトリック教会への貢献を理由に、マルタ騎士団の騎士号を教皇から受けている。この栄誉はフランシス・スペルマンニューヨーク大司教の手回しで行われたとされている。 自らのホワイトハウス入りの夢を絶たれたジョーは、長男のジョー・ジュニアにその夢を託すようになった。ところが、ケネディ家を悲劇が襲う。1944年8月12日、期待のジョー・ジュニアが海軍の飛行隊での任務中、イギリスでの飛行機事故で不慮の死を遂げたのである。ジョーは非情な運命に屈せずに、同じ夢を次男のジャック(ジョン・フィッツジェラルド)に託した。こうして1946年に下院議員に立候補して当選したジャックは上院議員を経て、1960年の大統領選挙に出馬、ジョーの望みどおりホワイトハウスの主となる。
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