在野時代
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元老院の辞職後は家塾経営や翻訳業のほか、私塾・済美黌で高谷龍洲に師事して漢学修行を続けている。自由民権運動の気運が盛り上がる中、明治14年(1881年)3月に西園寺らと創刊した『東洋自由新聞』の主筆を務めるが、すぐに廃刊となり、翌明治15年(1882年)には仏学塾から『社会契約論』の漢文訳『民約訳解』を刊行。自由党の旗揚げに関わり、党発行の新聞である『自由新聞』社説掛となる。明治16年(1883年)には日本出版会社を設立。明治18年(1885年)には長野県出身のちのと結婚。外相・井上馨の条約改正交渉を巡る大同団結運動に参加し、明治20年(1887年)には長野で演説、後藤象二郎の農商務大臣辞職を求める封書を代筆するなど運動に関わったため、同年公布の保安条例で東京を追われる。また、明治21年(1888年)には仏学塾も廃塾となる。 明治21年(1888年)に大阪で創刊した『東雲新聞』の主筆も務める。兆民の演説に感銘を受けた角藤定憲に芝居公演の企画を提唱し、角藤は大阪新町座で大日本壮士改良演劇会を旗揚げし、いわゆる壮士芝居の先駆となる。そのときの演目のひとつ『勤王美(義とも)談上野曙』は兆民が幸徳秋水に依頼したといわれる。
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在野時代
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処女作である『なんとなく、クリスタル』の巻末に少子高齢化を示唆するデータが記されているのをはじめとしてデビュー当初より他の対象とは区別することなく政治に対しての言及も行っていたが、1990年代より「神なき国のガリバー」その他においてそれが顕著となる。『新・文芸時評読まずに語る』においては「大衆消費文化の申し子として右手から出てきて自分は何も変わっていないはずが、世の中という舞台全体がどんどん右に動いて、今は一番左に立たされているような気がする」と述べている。 1991年の東京都知事選で小沢一郎が磯村尚徳を支援したのに対し、田中は『神なき国のガリバー』にて当時現職の鈴木俊一への支持を表明した(なお田中はそれ以前に鈴木を取材している。詳しくは当該項目参照)。また小沢が推し進めた湾岸戦争派兵や小選挙区制導入には反対の立場で、1990年代前半の日本新党をはじめとした「新党ブーム」には当時厳しい評価をしており、細川護熙内閣に対しても当時のメディアや文化人が総じて画期的だと報じる中、政治手法が翼賛的だと警鐘を鳴らしていた。 村山富市内閣には発足当時「理念なき野合」と評する意見が多かった中、「55年体制の二項対立を越えた内閣」と高評価を下していた。だが次第に「社会党が自民党も驚くくらい腰砕けになっている」と見方を変え、特に阪神・淡路大震災時の危機管理のあり方については厳しい評価を下した。また青島幸男についても参議院議員時代や議員辞職後在野だった時期、さらに東京都知事就任後世界都市博覧会を中止とする決断をしたところまでは評価していたが、その後都市博中止以外の、破綻した2信用組合への対応など事実上の公約撤回に対しては「都市博を中止にしたところで都知事を辞職すれば良かった」と述べた。
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