国際化、1830年–1850年とは? わかりやすく解説

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国際化、1830年–1850年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 23:14 UTC 版)

氷貿易」の記事における「国際化、1830年–1850年」の解説

ニューイングランド始まった氷の貿易は、1830年代から1840年代にかけてアメリカ東海岸一帯事業拡大したが、一方で世界またにかける新し交易路生まれた最初のそして最も利益出た航路は、インドであった1833年チューダー実業家のサミュエル・オースティンとウィリアム・ロジャース組んで帆船タスカニー (Tuscany)号でカルカッタ向けに氷を輸出しようとした同年9月に氷を積んだタスカニー号がベンガル湾に入ると、これに沸いたインド在住イギリス人エリート層は夏の暑さで氷が溶けてしまうのを少しでも減らし一刻も早く陸揚げができるよう、通常東インド会社規則禁止されていた夜間の荷下ろしをタスカニー号に許したうえ、関税の非適用まで認めた。こうして正味でおよそ100ショートトンあった氷は1ポンド0.5キログラム)あたり3ペンス小売価格無事に売りさばかれ、タスカニー号の初の積荷は9,900ドル2010年253,000ドル相当)もの利益生むことになった1835年にはチューダーは、カルカッタマドラスボンベイへの定期便事業化させるまでになった。 この時もまたチューダー競争相手がすぐにインド市場現れカルカッタボンベイ海路で氷を輸出した。この地での需要はさらに高まったが、元々この地にいた氷の商売人はほとんどが駆逐された。カルカッタには現地イギリス人コミュニティによって石造り巨大な貯氷庫が建造され輸入された氷が貯蔵された。この氷を使って冷やされ果物乳製品少量ずつ船便出荷されそのたび高値がついた。イタリア人貿易商アルプス山脈の氷をカルカッタ輸入する取り組みはじめたが、チューダーカリブ海駆使した独占手法をここでも実行しあらゆる商売敵市場からはじき出したカルカッタ長いあいだ、氷の取引によって指折り利益生み出す市場であったチューダー一人1833年から1850年の間に220,000ドル2010年470ドル)以上の利益積み上げたとされる。 ほかにも新し市場生まれつつあった。1834年には、チューダーブラジルに氷と冷やした果物出荷しリオ・デ・ジャネイロに船を寄港して取引行った。この販路では、砂糖果物、後には綿花積んで北アメリカ帰港することがもっぱらであったニューイングランド発の氷の貿易船は、1839年にはオーストラリアシドニー到達し、はじめは1ポンドあたり3ペンスで氷を販売していたが、後に6ペンス値上げされた。この取引定期化される至らず、この次の出荷1840年代だった。冷やした野菜バター、卵のカリブ海太平洋へ輸出1840年代拡大し、これらの品物は氷を積んだ一艘の船におよそ35載せて輸送された。氷を積んだ船は、ニューイングランドから香港フィリピンペルシャ湾ニュージーランドアルゼンチンペルーにも到着したニューイングランド実業家たち中には1840年代イギリスで氷の市場開こうとした者もいた。最初にそれに挑戦し、そして失敗したのがウィリアム・レフトウイッチであった。彼は1822年ノルウェーから氷を輸入してイギリス輸出しようとしたのだが、彼の積荷ロンドンに届く前に溶けてしまったのである成功例としては、フレッシュ湖に自前供給ルート持っていたジェイコブ・ヒッティンガーとウェナム湖に土地持っていたエリック・ランドールのそれぞれ1842年1844年挑戦挙げられるどちらかといえば上手くいったのはランドールのほうだった。彼はイギリスに氷を輸出するための会社、ウェナム・レイク・アイス・カンパニーを設立しロンドンストランドに氷を貯蔵する倉庫建設した。ウェナム湖の氷は純度高く冷却効果優れているという触込みで、イギリス消費者地元の氷ではなくこの氷を舶来品として売り込むことに成功したイギリス汚染されており、健康によくない避けられていた。当初こそ一定の成功おさめたものの、事業次第縮小していった。一部にはイギリス人北アメリカほど一般的に飲料冷やすために氷を使わなかったということもあるが、それよりもこの貿易長距離輸送により氷が溶ける分を計算にいれると、どうしてもコストになってしまうことのほうが大きかったそれでもなお、この貿易によって1840年代アメリカからイギリス輸送される品物は氷の積荷一緒に運ばれるため冷蔵保存され価値が高まるという副産物はあった。 アメリカ東海岸でも氷の消費量増え始めていた。とりわけ業務用家庭用問わず冷蔵保存という用途そのものに光が当てられのである。氷は乳製品新鮮な果物保存するという目的からアメリカ北東部でも需要高まった。氷によって冷蔵され品物拡大しつつあった鉄道網によって各地輸送された。1840年ごろには、氷はより少量商品大陸横断してさらに西部へ輸送するためにも使われるようになったアメリカ東部漁師たちは氷を使って自分たちがとった冷蔵始めた東部では企業でも家庭でも、もはや冬にかけて独自に氷を収穫することは少なくなり、商品として流通したものを利用することがほとんどであった事業向けの消費伸びたことで、かつてのチューダー独占状態崩れたものの、取引そのもの増大していたために彼の得る利益はいまだ莫大なものがあった。需要を満せるだけの氷を供給することこそが求められていた。1842年以降チューダーたちはニューイングランドウォールデン池投資してさらなる供給源にしようとした。フィラデルフィア・アイス・カンパニーのような新し会社もでき始め新たに敷設され鉄道利用して収穫した氷が輸送されたほか、カーショー家はより優れた氷の収穫法をとりいれてニューヨーク一帯供給した

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