国名について
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当国は、律令制定の際に表記を「大倭国(やまとのくに)」として成立したとされる。ただし藤原京出土の木簡に「□妻倭国所布評大□里」(所布評とは添評を指す)とあるように、「倭国」と記載された様子も見える。 その後、奈良時代の天平9年12月27日(ユリウス暦:738年1月21日)に表記は「大養徳」に改められた。天平19年3月16日(747年4月29日)には元の「大倭」に改称。その後、天平宝字元年(757年)頃から「大和」に定められたとされる。平安時代以降は「大和」で一般化した。 国名に使用される「ヤマト」とは、元々は「倭(やまと)、大倭(おおやまと/やまと)」等と表記して奈良盆地東縁の一地域を指す地名であった(狭義のヤマト)。その後、上記のように「大倭・大養徳・大和(やまと)」として現在の奈良県部分を領域とする令制国を指すようになり、さらには「日本(やまと)」として日本全体を指す名称にも使用された(「大和」の項も参照)。 戦国時代を経ても、飛鳥時代・奈良時代以来の古い寺社が権門領主として大和国を支配していたことから、安土桃山時代には「神国」という異称もあった。
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国名について
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西ヨーロッパでは同国をモスクワ・ロシアまたはモスコヴィアなどと呼んだが、これらの呼称は本来、前身であるモスクワ大公国を指す国称であった。 一部の研究者たちはロシアの正式な国称が採用されず、西側諸国で「モスクワ」と呼ぶのが一般化したのは、ライバル関係にあったポーランドの政治的利害関心が原因だと指摘しているが、モスクワ・ツァーリ国家という国称はロシアの歴史家の間で頻繁に使用され、ロシア人たちにも広く認められている。 一方、日本ではこの呼び名はあまり使われておらず、単にロシアと書かれたり、モスクワ大公国、モスクワ国家、ロシア帝国と書かれることが多い。その他、ロシア皇国、モスクワ皇国などの翻訳があるが、使用例は限られている。書籍や教科書ではロシア国と書かれることもある。
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「スロバキア共和国 (1939年-1945年)」の記事における「国名について」の解説
第二次世界大戦後のチェコスロバキア共産党政権時代には、政治的意図から小文字のスロバキア国(slovenský štát)の呼称が使われた。1989年の民主化および1993年のチェコスロバキア連邦制解消後はスロバキア第一共和国(Prvá Slovenská republika)や、現在のスロバキアの公的機関であるNation's Memory Instituteが記しているスロバキア共和国(Slovenskej republiky)と称されている()。また、薩摩秀登編著『チェコとスロヴァキアを知るための56章[第2版]』においても「『スロヴァキア独立国』(正式国名はスロヴァキア共和国)」との記述がある。 一方で「独立スロヴァキア国」との呼称も見られ、これについて早稲田大学教授の長與進は「スロヴァキア歴史学のアポリア:独立スロヴァキア国の評価をめぐって」の中で、マルクス主義派が「スロヴァキア国、slovenský štát」(語頭が小文字)を、ナショナル派が「スロヴァキア国、Slovenský štát」(語頭が大文字)あるいは現在のスロヴァキア共和国との連続性を含意する「第一次スロヴァキア共和国、Prvá slovenská republika」を、リベラル派はナショナル派が用いる「第一次スロヴァキア共和国」を避けて、語頭の大文字小文字に関係なく「スロヴァキア国、S/slovenský štát」をそれぞれ用いており、それらの論争と一線を画するためとしている(p. 81)。
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