分国の背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 10:09 UTC 版)
丹波国は、現在の南丹市や亀岡市に国府が置かれていたと推定され、また南部の桑田郡には国分寺・国分尼寺が建立されており、奈良時代には丹波国の中心地となった。これに対して、古くからの重要地である丹後は、これより北に離れた地であることが、丹後国の分国の理由と考えられている。 また、分国後の丹波国が丹後国に対して「丹前国」とされなかったのは、分国当時(和銅6年)の分国の原則が、それ以前の同等な国の分割(吉備国を備前、備中、備後とするような分割)とは異なり、母国から一部を割いて、分割された側に別の新国名を付ける形(備前から美作が分国するような形)がとられていた為であると考えられる。そして分割された側でありながら、丹後(二字で「タニハノミチノシリ」と訓じられた)とされて新たな国名が与えられなかったのは、ここが元々の丹波の地であるので、タニハノミチノシリとして「タニハ」の名を残した為とみられる。 なお分国後の国名については、『大日本古文書』で丹波国を「丹波前国」、『日本霊異記』で丹後国を「丹波後国」と記した例があり、前者は「タニハノミチノクチ」、後者は「タニハノミチノシリ」(和名類聚抄)に対応したものと考えられる(いずれも「ミチ(道)」が省略されている)。
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