分国遠江防衛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 06:29 UTC 版)
明応3年(1494年)からは政元と連携関係にあった駿河守護の今川氏親が義寛が守護を兼ねる遠江に侵攻を開始。義寛はこれに対処しようとするが、明応4年(1495年)に隣国美濃で船田合戦が勃発し、尾張国内がこれに巻き込まれ遠江出陣は不可能な状態となる。また同年には若年時から義寛を支えてきた執権の織田敏定が没し(病死とも戦死とも)、敏定の跡を継いだ寛定もまもなく船田合戦中に戦死した。義寛は最も頼りとした重臣とその後継者を続けざまに失う事となった(守護代は寛定の弟寛村が継ぐ)。 船田合戦が終結し、尾張国内の政情が安定化した明応9年(1500年)頃から義寛は戦略を変更。前職の義材派から現職の義高派(実質的に政元派)に完全に切り替え、政元の厚い支持を獲得。信濃守護小笠原貞朝、関東管領上杉顕定にも協力を呼びかけ、今川氏親を東西から挟撃しようと目論む。 文亀元年(1501年)、遠江守護代甲斐氏への援軍として、義寛は弟である寛元と義雄らを遠江に派遣し今川氏に対し攻勢をかける。しかしまもなく史料上からはその名を消すため、以後の動向の詳細は不明となる。永正8年(1511年)には子の義達が尾張守護となっているため、少なくともそれまでには隠居したものと思われる。没年は天文14年(1545年)4月17日に義寛の三十三回忌法要が営まれているため、逆算すると永正10年(1513年)4月17日に死去。享年57。法号は正観院殿道仙竺渓。
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