吉見説反論への再反論
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「軍慰安所従業婦等募集に関する件」の記事における「吉見説反論への再反論」の解説
小林よしのりの説に対して上杉聡は『脱ゴーマニズム宣言』(東方出版、1997年)において、逆にこの文書をもって「強制連行」の事実があったことを示す史料だとし、そのような悪質な「業者の背後に軍部があることを「ことさら言うな」と公文書が記しているのであり、強制連行だけでなく、その責任者もここにハッキリ書かれている」とした。 京都大学教授の永井和は1998年の大学での授業「自由主義史観論争を読む」で、藤岡信勝や小林よしのりの歴史解釈を検討し、「また従来史料実証主義を看板にしていた一部の歴史家が、この動きに釘をさすどころか、逆にそれを支持する姿勢をとろうとしていたことを知って、いささか驚いた」ことをきっかけに慰安婦に関する論文「陸軍慰安所の創設と慰安婦募集に関する一考察」を2000年に発表した。永井はこの論文で、上出の保守論壇による反論を「日本政府の謝罪と反省の意志表明といった、一連の動きに対する反発、反動」としてとらえた。なお、彼は、2004年の追記の中で、吉見のように日本ファシズムの観点から戦争責任について関心があったわけではない、とも付け加えている。永井は、吉見の主張する日本軍の関与を踏まえつつ、同論文で「副官通牒と密接に関連する1938年2月23日付の内務省警保局長通牒(内務省発警第5号)「支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル件」とそれに付随する県警察部長からの内務省宛報告書を根拠に「そもそもが強制連行を業者がすることを禁じた取締文書などではない」と解釈する。また、永井は、強制連行に対する日本軍の取締りに関する責任に関する吉見の主張を批判的に論じつつ、「軍の依頼を受けた業者は必ず最寄りの警察・憲兵隊と連絡を密にとった上で募集活動を行えとするところに、この通牒の眼目があるのであり、それによって業者の活動を警察の規制下におこうとしたのである」と結論付け、「この通牒を強制連行を業者がすることを禁じた文書などとするのは、文書の性格を見誤った、誤りも甚だしい解釈と言わざるをえない」と主張した。永井のこの論文は、永井の旧友である釜山外国語大学校の金文吉が2001年に韓国で紹介した。 林博史は、1997年12月に警察大学校から出てきた資料、「支那渡航婦女の取扱に関する件」、「支那渡航婦女に関する件伺」、「南支方面渡航婦女の取扱に関する件」により、業者を裏で操っているのが内務省と軍であるとしている。 吉見義明は、日本軍が中国各地に大量に軍慰安所を設置し始めた背景については、1937年7月から日本が中国に対する全面的な戦争に入り、中国大陸に常時100万人以上の軍隊が駐屯するという事態になったことをあげているが、林博史も同様の点を指摘し、こうした背景から警察の元締めである内務省警保局が、業者の犯罪行為を「黙認」する通達を府県知事に出したとしている。さらに、警察は「黙認」しただけでなく、軍と共謀して「慰安婦」集めを組織したとしている。これは、1938年11月8日付で、内務省警保局長から大阪、京都、兵庫、福岡、山口の5府県知事に出された「南支方面渡航婦女の取扱に関する件」を根拠としている。本文中にある「本件極秘に左記(「支那渡航婦女の取扱に関する件」のことを指す)に依り之を取扱ふこと」、「何処迄も経営者の自発的希望に基く様取運び之を選定すること」の記述から、軍の参謀、陸軍省、警保局らは女性を「慰安婦」として狩り出すことがばれると困るので、業者が勝手にやっている振りをしろと知事に指示を出しているのだ、としている。
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