古石神井川とかつての河道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 16:20 UTC 版)
「石神井川」の記事における「古石神井川とかつての河道」の解説
最終氷期の海退期にも石神井川は存在し、これを「古石神井川」と呼んでいる。ボーリング調査によって、かつての河道は不忍池からほぼまっすぐ南下し、日本橋台(江戸前島)の東側をなおも南下し、西側を並走していた丸の内谷(日比谷入江)を刻んだ平川(現・神田川)と芝浦沖あたりで合流している。これは昭和通り谷と呼ばれている。縄文海進期、海岸線は現在のJR王子駅付近まで迫っていたと考えられ、このときまでに昭和通り谷は海底谷となって隅田川などからの砂礫が埋め、再び海退していくとともに一帯は三角州が形成されたと考えられる。 武蔵野台地を流れる河川は概ね縄文海進後の埋没谷上の沖積低地をゆったり流れることが多い。しかし石神井川は例外的に音無渓谷のような峡谷を形成して周囲からいくつもの滝を落としていた。武蔵野台地上では近世の人為的な掘削による神田川 (お茶の水渓谷)を除き、峡谷を形成しているのは谷沢川(等々力渓谷)のみしか知られていない。その成因と時期については議論があり、谷沢川と同様にいくつかの仮説が出されている(前述)。 峡谷を形成するとともに、石神井川は王子から東へ流れたため、飛鳥山の西側を南下するかつての河道は無能谷となった。 谷田川・藍染川 この広い谷を、巣鴨薬園からの通水、周辺の谷戸からの湧水を集めた谷田川(谷戸川とも呼ばれた)の小河川が流れていた。江戸期には王子石堰からの通水も合わせた。下流にはかつて谷田川に架橋されていた霜降橋、谷田橋などの名前が残っている。昭和に入って暗渠化されたが、暗渠上には染井銀座、田端銀座、霜降銀座が建って賑わった。谷根千(現在は「よみせ通り商店街」)に入ると、千駄木と谷中の町域境界を流れていた。かつて付近は藍染めが盛んであった事から「藍染川」とも呼称された。川はいくつかの通水に分かれて流れており、夏には小川を蛍が飛び「蛍川」と名があった。一帯は盆地のようになっており、大雨でたびたび浸水していた。1918年、治水対策として谷田川を分岐させて道灌山の下を暗渠で通し、JR西日暮里駅付近から開渠として京成線沿いに町屋へ向かう藍染川排水路を通した。しかしこの排水路や残った川道も1960年までには暗渠化され、現在は暗渠跡に藍染川通り、藍染川西通りの名が残るのみとなっている。千駄木付近の暗渠道は細かく蛇行していることから「へび道」の俗称がある。通水は不忍池に注いでいた。 忍川・姫ヶ池・鳥越川 不忍池の南東側は、かつて隅田川の自然堤防と本郷台地に挟まれた後背湿地で、浅草の北側から伸びていた千束池や、鳥越の北にあった姫ヶ池など葦が生える水はけの悪い沼田地だった。一帯は江戸初期から整地が始まり、浅草御蔵を造る際に鳥越神社の丘を崩してこれらの沼地を埋め立て、旗本・御家人の武家屋敷を整備した。吉原遊廓を新吉原に移転させたのもの頃である。しかし変わらず水はけは悪く、不忍池からの通水は「忍川」と呼ばれて屋敷の周囲に掘を囲みながら東へ流していた。鳥越神社の南側からは「鳥越川」と名を変え、途中で浅草方面からの流れていた新堀川(現在は暗渠化しており合羽橋はその架橋)と合流させて隅田川へ流している。途中の秋田久保田藩佐竹氏の江戸屋敷前(現在の佐竹商店街の南側入り口付近)にはかつて大きな堀があり、「三味線堀」と呼ばれていた。 お玉ヶ池・東堀留川・西堀留川 江戸時代初期に神田川を開削して隅田川へ流す平川の瀬替えが行われ、後背湿地の名残として小さな池が残った(於玉ヶ池; 現・千代田区岩本町、現存せず)。また、水運のための掘割として日本橋川の中央区小舟町付近から北へ向かって東堀留川・西堀留川が掘られたが、これらはおおよそ昭和通り谷の軟弱土壌に沿っている。この付近では東京メトロ日比谷線や昭和通りのアンダーパスもこの埋没谷に沿って建設されている。 なお、浜町川は昭和通り谷の東岸にあたる浅草台上の掘割である。
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