南北統一・国民政府成立後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 16:00 UTC 版)
「中国国民党」の記事における「南北統一・国民政府成立後」の解説
北伐の完了を受けて、1928年、南京に蔣介石を主席とする国民政府が成立した。しかし、その内実は、北伐の過程で、各地の軍閥を取り込んだ、雑居政党となっており、それらを整理しようとする蔣介石の動きを1つの契機として、中原大戦(1930年5月1日~10月10日)を頂点とする、党内対立の激化が起こり、最大の危機を迎えることになる。 1928年5月、国民党は南京において排日教育方針を決議した。国民党が決議した排日教育方針は以下である。 国恥教材を十分中小学教科書中に編入すること 学校は機会ある毎に、国恥事実を宣伝し、我が国第一の仇敵が何国なるかを知らしめ、これを反覆すること 国恥図表を設備し、学生に対し機会ある毎にこれを示し、その注意を促すこと 第一の仇敵を打倒する方法に関し、学校において教師学生共同研究すること ここで日本の活動は武力的政治的侵略であるとし、馬関条約、義和団の乱、対華21カ条要求の撤回、さらに沖縄、台湾、朝鮮、関東租借地の返還を主張、経済的侵略として日貨排斥、国貨使用を提唱し、日本が中国を侵略するのは人口が増加しているためであり、日本が行う中国での文化事業までも文化的侵略であるとしている。佐々木秀一『時局と教育的対策』(明治図書、1938年11月)は、国民党は「彼等は、自己に都合よき場合には歴史上の因果関係を肯定し、然らざる場合にはこれを否定する」とし、自分たちが多民族の領土を略奪したものを当然とする一方、アヘン戦争以降に喪失した領土については不当であると主張するのは自己矛盾であると指摘している。佐々木秀一『時局と教育的対策』(明治図書、1938年11月)によると、国民党の排日教育の内容は以下である。朝鮮、沖縄、台湾の領有権は言及しているが、日本帝国主義によって奪われたと主張する尖閣諸島の領有権について、何ら触れていないのが興味深い。 <地理>割譲地日本の中国侵略は約五〇年前、我藩属琉球を奪ひ、沖縄県と改称したるに始まる。日清役後、我が台湾、膨湖列島を奪ひ、福建に近遍す。日露役後、また我が藩属高麗を併呑し、両国境に境を接す。 <小学唱歌集>国恥記念歌高麗国、琉球国、興台湾少なからざる地すべて彼に併呑せらる(…)奴隷となり僕婢となるの日、眼前に迫る此国辱何れの時か消えん 1932年には、強大な軍事力とブルジョアジーの支持を背景に、蔣介石はなんとかその危機を乗り越えるが、他方で、その間の共産党の勢力回復や満州事変以降勢力拡大する日本軍に脅かされることになる。 蔣介石は、抗日戦より反共主義を優先し、1930年から1934年にかけて、5次にわたる反共囲剿戦(掃共戦)を繰り広げるも、共産党は井崗山の革命根拠地を撤収・放棄して長征を行ったことから共産党を亡ぼすには至らなかった。この頃の国民党軍はドイツ国防軍からアレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼンを軍事顧問として招き精鋭化されていた。1936年には、なおも抗日戦における共産党との共闘に徹底的に反対していた蔣介石が張学良らによって軟禁され (西安事件)、これが、国共両党の接近をもたらした。1937年に日中戦争が開始され、同年9月22日、第二次国共合作が成立。同年末に南京が陥落すると、国民党政府は重慶に移転して日本軍の攻撃をしのぎ、執行機関を武漢に置いた。1938年3月29日、漢口に於いて臨時全国代表大会を開き、三民主義を再確認するとともに、憲章改正で総裁制が定められた。太平洋戦争期には遠征軍がビルマの戦いに参加し、10万名の戦死者を出した(抗日老兵)。
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