十三宝塚遺跡
名称: | 十三宝塚遺跡 |
ふりがな: | じゅうさんぽうづかいせき |
種別: | 史跡 |
種別2: | |
都道府県: | 群馬県 |
市区町村: | 伊勢崎市境伊与久 |
管理団体: | |
指定年月日: | 1988.01.11(昭和63.01.11) |
指定基準: | 史2 |
特別指定年月日: | |
追加指定年月日: | |
解説文: | S51-6-008[[十三宝塚]じゅうさんぽうづか]遺跡.txt: 伊勢崎市の東方、赤城山麓の末端に形成された台地上に位置する。 遺跡は北・西・南を大溝で画した東西約180メートル、南北約250メートルの範囲をもち、全体に不整形の方形を呈する。枢要部はこの区画の北寄り中央部に構成され、その遺構は南・西の各辺82メートル、東辺92メートル、北辺60メートルの不整台形状に柵をめぐらし、南辺中央部には掘立柱建物からなる門跡がある。更にその内部中央には掘込地業をもつ建物基壇、その西南部には方形基壇も配されている。 またこの枢要区域の東一帯は、2間×3間の建物規模を主とした20棟以上の掘立柱建物がある程度、規格をもって並び、しかも3つのブロックに分けられるという付属地区の構成が知られる。この遺構配置状況がきわめて官衙的な様相を示していることから、この遺跡を奈良時代から平安時代に及ぶ佐位郡衙と推定する説が提起されているのも由なしとしない。また各種の施釉陶器、『倭名類聚抄』に載る佐位郡内の多くの郷名の頭字を印した郷銘瓦の出土などはこの説を補強するものかと考えられている。 しかし史料的にはなお特定の郡衙とすることは困難であるが、古代地方官衙の形態を窺ううえで重要であるのみでなく、古代上野地方の古代史究明においても逸することのできない重要な遺跡といえる。 |
十三宝塚遺跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/20 14:37 UTC 版)
十三宝塚遺跡(じゅうさんぽうづかいせき)は、群馬県伊勢崎市境伊与久にある、奈良時代の遺跡。1988年1月11日に国の史跡に指定された。
概要
十三宝塚遺跡では、1973年から1976年にかけて、工業団地建設に先立って発掘調査が実施された。一帯は伊勢崎市内でも遺跡の集中する地域で、北東1.5キロには下谷(したや)古墳群がある。また、遺跡の北には古代の主要道であった東山道駅路が通っていた。本遺跡からは、上野国佐位郡の郷名を記した文字瓦が出土し、佐位郡の郡衙の遺構とする説もあった。しかし、検出された建物群の配置や、出土品に仏像、仏具などの仏教関係品が多いことから、遺跡の中心部分は郡衙ではなく仏教寺院の跡とみなされるようになっている[1]。
遺跡地は南北約390メートル、東西は200メートル以上に及ぶ。西辺と南辺は幅4.7メートル、深さ2メートルほどの溝で区画され、東辺は自然地形の谷になっている。北辺は古代の官道である東山道駅路が通っていたが、官道のルート変更により、牛堀(東山道の側溝を利用した古代の用水路)となっている[2][1]。
遺構
遺跡地の中央北寄りに、掘立柱の廻廊状遺構で囲まれた一画がある。この一画は、東辺90メートル、南辺82メートル、西辺85メートル、北辺70メートルの不整四辺形をなす。そのほぼ中央に東西20メートル、南北16メートルの基壇跡があり、桁行3間、梁間2間の建物が建っていた。この基壇の南西側には一辺12メートルの方形の基壇があり、廻廊状遺構の南辺には門跡(主柱の前後に控柱が2本ずつ立つ四脚門)がある。これらの建物跡は、佐位郡衙跡とする説もあったが、現在では中央の基壇が寺院の金堂跡、南西の基壇が塔跡とみなされている[2][1][3]。
廻廊状遺構の東側には、掘立柱建物跡約30軒、竪穴住居跡約50軒のほか、井戸、土壙などが検出されている[2]。
出土品
出土品には仏教関係遺物が多く、如来の塑像、菩薩像の押出仏(薄い銅板を型に乗せ、槌で叩いて図柄を表したもの)、三彩の火舎(かしゃ、密教法具の一種)の獣脚、三彩の鉢、灰釉の浄瓶(細長い頸部を有し、肩に注口の付いた水瓶)、瓦塔などが出土している。出土瓦は笠懸瓦窯群の製品で、上野国分寺II期瓦と共通することから、十三宝塚遺跡の寺院も天平勝宝年間(749 - 757年)頃の創建とみられる[4]。
出土した文字瓦には「佐」、「渕」、「反」、「雀」などの押印がみられる。「佐」は佐位郷、「渕」は渕名郷(ふちなのごう)、「反」は反治郷(はじのごう)、「雀」は雀部郷(ささいべのごう)を指し、いずれも上野国佐位郡内の地名である[5]。
遺跡地では仏教寺院以外の生産活動も行われており、出土品からみて、鋳鉄・鋳銅を行う工房が存在したことが明らかである。具体的には鉄滓(製鉄過程で生じた不純物)、羽口(金属鋳造時に用いる送風管)、取鍋(とりべ、溶融した金属を型に流し込む際に用いる柄杓状のもの)、坩堝、鋳型、炉壁などが出土している。また、漆の付着した土器が多数出土しており、漆器工房の存在も想定される[6]。
各地の国分寺の造営には国司のみならず郡司も協力していた。十三宝塚遺跡にあった寺院は、国分寺と同笵の瓦が使用されている点から、上野国分寺造営に協力した郡司檜前(ひのくま)氏の氏寺であった可能性が指摘されている[1]。
脚注
参考文献
- 須田勉「古代寺院の経済活動 関東のいくつかの寺を中心として」『国士舘史学』第4巻、国士舘大学史学会、1-36頁、1996年3月。
- (リンク)
外部リンク
- 十三宝塚遺跡(伊勢崎市サイト)
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