初期のプロジェクト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/04 07:42 UTC 版)
「インタースラーヴィク」の記事における「初期のプロジェクト」の解説
1665年、『最初のインタースラーヴィク文法』(Gramatíčno izkâzanje ob rúskom jezíku) がクロアチアの司祭ユライ・クリジャニチ (Juraj Križanić) によって書かれた。彼は Ruski 語を話したが、実際にはほとんど教会スラヴ語のロシア版と彼自身の母語であるクロアチア語南チャ方言が混合した言語であった。クリジャニチは論文 Politika (1663–1666) を含む他の作品でもそれを使用した。 スラヴ語使いであるオランダのトム・エックマン (Tom Ekman) の分析によれば、この論文で使われていた言葉の59%はスラブ諸語で共通の単語であった。残りの10%はロシア語と教会スラブ語で、クロアチア語は9%、ポーランド語が2.5%であった。 注意すべきはスラブ人の誰もが理解できる言語で書くことを試みた最初の人物がクリジャニチではなかったということだ。1583年、もう一人のクロアチア人司祭シメ・ブディニッチ (Šime Budinić) は、ラテン文字とキリル文字の両方を使用してペトリュス・カニシウス (Petrus Canisius) の Summa Doctrinae Christanae を “Slovignsky” に翻訳した。 クリジャニチの後もスラブの統括言語を作成するために数多くの努力がなされた。注目すべき例は1826年にラテン語とスロバキア語で出版されたスロバキア弁護士ヤーン・ヘルケリ (Ján Herkeľ, 1786–1853) の普遍言語スラヴィカ (Universalis Lingua Slavica) である。これはクリジャニチのプロジェクトとは異なり西スラヴの言語に近いものであった。 19世紀後半、汎スラヴ語プロジェクトは主にスロヴェニア語とクロアチア語の領域であった。多くの人々が国家意識に目覚めたこの時代、自分たちの国家を持っていたスラヴ人はロシア人だけであった。明確な国境はほとんどなかったが、他のスラヴ民族の大部分はスラヴではない国々で暮らしていた。 南スラブ語用の標準書を作成する数多くの努力の中で共通南スラヴ語イリュリアン (Illyrian) も確立された。イリュリアンは将来、全てのスラヴの文学言語としても役に立つ。 特に重要なのはスロベニアのオーストリア帝国スラブ民族主義者 (Austroslavist) であったマティヤ・マヤール (Matija Majar, 1809–1892) が、後に汎スラヴ主義者へと転身したことであった。彼は1865年に『相互スラブ正書法』(Uzajemni Pravopis Slavjanski) を出版した。彼はこの著書の中でスラヴ人同士がコミュニケーションをとる際の最善の方法は自分の言葉を出発点として段階的にそれを修正していくことであると主張した。彼はまず最初に各スラヴ諸語の正書法を汎(相互)スラヴ正書法に変えることを提案し、続いて主要な5つのスラブ語(古教会スラヴ語、ロシア語、ポーランド語、チェコ語、セルビア語)を比較した文法について説明をした。 マヤールは言語そのものについての著書とは別にキュリロスとメトディオスの伝記と1873〜1875年にSlavjanで出版された雑誌のためにもそれを使用した。この言語の断片はいまでも Görtschach のマヤールの教会の祭壇で見ることができる。 他にもクロアチアのマティヤ・バン (Matija Ban)、スロベニアのラドスラフ・ラズラグ (Radoslav Razlag) とボジダル・ライチ (Božidar Raič)、マケドニアのブルガリア人グリゴル・パルリチェフ (Grigor Parlichev) によっても汎スラヴ語に関する書籍が出版された。いずれも古教会スラヴ語と当時の南スラブ語の要素を組み合わせるというアイデアに基づいていた。 19世紀の汎スラブ語プロジェクトの著者 ステファン・ストラティミロヴィッチ (Stefan Stratimirović)(1757–1836) マティヤ・バン (Matija Ban)(1818–1903) ラドスラフ・ラズラグ (Radoslav Razlag)(1826–1880) ボジダル・ライチ (Božidar Raič)(1827–1886) マティヤ・マヤール゠ジリスキ (Matija Majar-Ziljski)(1809–1892) グリゴル・パルリチェフ (Grigor Parlichev)(1830–1893) 上記の著者たちにはスラヴ諸語は別々の言語ではなく1つのスラヴ語の方言であるという信念があった。彼らは、これらの方言が相互理解ができないほどに分化してしまった事実を嘆いていたのだ。そして彼らが考案した汎スラヴ語はこのプロセスを逆転させることを意図していたのである。彼らの長期的な目的は個々のスラヴ語を汎スラヴ語に置き換えて一つの言語に統一することであった。 たとえばマヤールは汎スラヴ語を古代ギリシャ語や現代語のような標準化された言語と比較して以下のように述べた。 「 古代ギリシャ人たちは4つの方言で話していたが、一つのギリシア語と一つのギリシャ語文学を持っていた。近代教育を受けた多くの国々で使われている言語もそうだ。たとえばフランス語、イタリア語、英語、ドイツ語にはスラヴ語よりも多くの方言がある。しかし、文学的言語は一つだ。他の国々では可能であり、実際に存在するのだ。同じことが私たちスラヴ人だけ不可能な理由などあるだろうか?:154 」 このように著者たちは新言語を構築したとは考えていなかった。彼らの著書のほとんどはスラブ諸語間における文法的な比較結果を提供しており、「汎スラブ語」を謳っているとも限らない。彼らのプロジェクトが共通しているのは厳密に規範的な文法や独自の語彙は持ってはいないということである。
※この「初期のプロジェクト」の解説は、「インタースラーヴィク」の解説の一部です。
「初期のプロジェクト」を含む「インタースラーヴィク」の記事については、「インタースラーヴィク」の概要を参照ください。
- 初期のプロジェクトのページへのリンク