初期のヘーチマン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 07:06 UTC 版)
16世紀末頃、ウクライナ・コサックの本営であったザポロージャのシーチ(英語版)の長はキーシュのオタマーンを称していた。1572年に登録コサック制度が作られると、従来のコサック軍の長と区別するため、ポーランド・リトアニア共和国(以下、共和国)の威光を帯びた称号である「ヘーチマン」が使われるようになった。共和国の権力者は実際のところこの称号を使っていなかったが、「国王陛下の御ザポロージャ軍の長老」という称号と共に用いられることになっていた。 ヘーチマンの称号は、共和国に対して叛乱を繰り返したコサック運動の首謀者の称号としても用いられたが、クルィーシュトフ・コスィーンシクィイ、セヴェルィーン・ナルィヴァーイコ、タラース・フェドローヴィチ(トリャスィーロ)、パウロー・パウリューク、ヤーキウ・オストリャーヌィン、ドムィトロー・フーニャらがそうしたヘーチマンとして知られている。 ヘーチマンは、軍司令官としての地位のほかに、文官の長としても全権を有していた。長老ラーダと共にヘーチマンは司法権を行使し、行政面において小さからぬ権力を有した。 1637年から1638年にかけてのコサック農民蜂起が鎮圧されたのち、登録コサックの長としてのヘーチマンの位は廃止された。かわって共和国政府の弁務官が長官に任命されるようになった。
※この「初期のヘーチマン」の解説は、「ヘーチマン」の解説の一部です。
「初期のヘーチマン」を含む「ヘーチマン」の記事については、「ヘーチマン」の概要を参照ください。
- 初期のヘーチマンのページへのリンク