初期のマシン: 400 と 800
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/11 00:14 UTC 版)
「Atari 8ビット・コンピュータ」の記事における「初期のマシン: 400 と 800」の解説
アタリは、ふたつの機種を発売するマーケティング戦略を採用した。ローエンドの「キャンディ」はゲーム機として販売し、ハイエンドの「コリーン」はコンピュータとして販売するというものである(コード名はアタリの2人の美人秘書に由来する)。「コリーン」にはROMカートリッジにもRAM増設にも使えるスロット、二つ目のカートリッジスロット、ビデオ出力、フルキーボードを装備し、一方で「キャンディ」はプラスチックのメンブレンキーボードとカートリッジスロットをひとつだけ備えていた(メモリ拡張不可)。 当時、連邦通信委員会 (FCC) からテレビの周波数帯域での電磁波の漏れを極めて低くするよう命令が出ていた。アタリの機械はテレビ用の信号を内部で生成していたため、FCCの規定を守るには厳重にシールドする必要があった。そのためアルミダイカストの頑丈なシールドで部分的にファラデーケージを形成し、その枠の中に様々な部品をネジ止めする形とした。このため非常に頑丈なコンピュータとなったが、コストと複雑さの面では不利になった。ちなみにRFモジュレータを持たないアップルのマシンはFCCの規定を守る必要はなかった(初期のTRS-80はFCCの規定を満足していない)。FCCの規定によって大きめの穴を設けることも難しくなり、 Apple II コンピュータにあったような拡張スロットやカードを大きなコネクタで本体と接続することができなくなった。そこでアタリは1つのシールドされたコネクタを通して複数の周辺機器をデイジーチェーン接続できるシリアルI/O (SIO) バスを設計した。全ての周辺機器(カセットドライブ、ディスクドライブ、インターフェイスボックスなど)はこのインターフェイスで接続された。これは周辺機器の高価格化を招くことになった。本体内部のスロットはROMおよびRAMモジュール用とした。 当初アタリは他のベンダーでも広く採用されている Microsoft BASIC を移植する予定で、8KBのROMカートリッジの形で供給するつもりだった。しかし、マイクロソフト製の既存の6502版BASICは12KBのROMが必要で、これを8KBに縮小しようというあらゆる試みは失敗した。そこでアタリは Shepardson Microsystems というコンサルティング会社に委託し、同社が一から独自の処理系を書くことを勧め、Atari BASIC(英語版) が完成した。 マシンは1978年11月に 400 と 800 として発表されたが、一般に入手可能となったのは 1979年11月である。この名称はメモリ容量を示していて、400 は 4KバイトのRAM、800 は 8KバイトのRAMを搭載する予定だった。しかし、リリース時点ではRAMの価格が下がっていたため、実際にはそれぞれ 8Kバイトと 16KバイトのRAMを搭載することとなった。その後もRAMの価格は下がり続け、800では全スロットを使って48KバイトRAMを搭載したバージョンをリリースするようになった。オーバーヒート問題が発生するようになり、アタリはRAMモジュールのケースを廃止し、基板だけをスロットに挿入するようになった。初期バージョンはRAMモジュールの上のカバーは簡単に開けられるようになっていたが、後期バージョンはフル実装で出荷されるのが普通になったため、ネジ止めして簡単には開かないようにした。
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