初期のベンチャー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/04 08:15 UTC 版)
1913年、上海で亜細亜影戯公司(英語版)を買収したヤシェル(Yashell)とシュフュール(Suffert)という2人のアメリカ人が張にコンサルタントになるよう依頼。張は映画製作の経験がないにもかかわらず、同社の業務を引き継いだ。有名な脚本家の鄭正秋に援助を求め、2人は同社の映画を作るため新会社を共同設立し、まもなく中国最初のフィーチャー映画『難夫難妻』を製作した。しかし第一次世界大戦の勃発後、ドイツのフィルムストック供給が止まり、亜細亜影戯公司と新会社は倒産。張のおじが亡くなり、張は家族の遊園地を経営するよう、おばから頼まれた。 1916年、上海でアメリカのフィルムストックが使えるようになると、張は幻仙公司を設立し、舞台を脚色した『黒籍冤魂』を製作したが、まもなく同公司をたたむことに。遊園地経営に戻り、遊園地も1920年には売却される。
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