初期のマリア崇敬
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2世紀後半のリヨンの司教エイレナイオスは、マリアを最初に本格的に論じた神学者とされる。エイレナイオスは旧約聖書におけるエバと新約聖書におけるマリアを対比して論じた。エイレナイオスによれば、マリアは「従順によって、自分と全人類のために救いの原因となった」のである。 ローマのプリシア共同墓地(英語版)には、3世紀頃のマリアのフレスコ画が描かれており、これは最も古いマリア絵画とされる。この絵ではマリアが膝にイエスを乗せ、修道服を着た男性が左手に本を持ち、右手にはメシアの象徴である星をイエスに翳している姿が描かれている。プリシア共同墓地には受胎告知とされる描画もある 。サン・ピエトロ大聖堂地下の発掘調査では、マリアと使徒ペトロが共に描かれているフレスコ画が発見されている。 マリアに願う祈りの最古とされるものは、4世紀のエジプトのギリシア語パピルスの断片に書かれたもので、起源は3世紀と推定される。これはカトリック教会では中世になって「終業の祈り」として使われ広く知られるようになり、ラテン語によるその冒頭句によって「スブ・トゥウム・プレシディウム」(あなたの保護によりすがる)と呼ばれている。 313年の ミラノ勅令により、キリスト教の礼拝が公けに認められると、これと共にマリア崇敬に関連する文学が発展し始めた。その初期の例として、ローマのヒッポリュトスやアンブロジウスが挙げられる。アンブロジウスはローマに住んでいたがミラノに移り、そこの司教となった人物で、キリスト者の生涯の手本としてマリアを崇敬しており、4世紀においてマリアの処女性を信じる先駆者として後世に伝えられる。 一般信徒のための司教座聖堂や教会が建てられると、サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ聖堂、サンタ・マリア・アンティカ聖堂(英語版)、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂など、ローマでマリアに奉献された教会群が5世紀から6世紀の間に建てられた。しかしながらマリアに奉献された教会が最も早く建てられたのは4世紀のシリアとされている。これはシリアの破壊された遺跡の欠片に、「生神女・神の母へ捧げる」とする碑が刻まれていたことから判明した。 431年のエフェソス公会議では、神の母・乙女として賛美されることが認められた。「テオトコス(神の母)」の称号は、すでに3世紀からキリスト信者の民の信心の中で述べられていたが、このエフェソス公会議で広範な議論の後、神の子の位格における神性と人間性という2つの本性の一致と、おとめマリアに「テオトコス(神の母)」という称号を与えることの正当性について、これらをこの会議で正式に確認したものである。 この公会議の後、マリア信心の真の意味での爆発的な広まりが見られるようになり、神の母マリアに関する教義は451年のカルケドン公会議で改めて確認された。この公会議において、キリストが真の神であり、真の人間であること、そしてキリストが人類の救いのために、神の母マリアから生まれたことが宣言された。 787年の第2ニカイア公会議においては、神への崇拝 (Latrīa)、天使や諸聖人への崇敬 (Dulia) が定められ、崇拝と崇敬の違い、およびマリアに対する崇敬が天使や諸聖人に対する崇敬より高位となることなどが定められた。
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