初期のメソポタミア文明
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「イラクの歴史」の記事における「初期のメソポタミア文明」の解説
詳細は「シュメール」、「エラム」、および「アッカド」を参照 メソポタミアで最初に文明を築いたのは、シュメール人を中心とした人々である。シュメール文明は、メソポタミアの南部、チグリス川とユーフラテス川の下流域に生まれた。シュメール人の民族系統は不明であり、その起源や周辺諸民族との関係は様々な技術を発明した。特に、紀元前3200年頃にはウルク古拙文字(楔形文字の原型となった絵文字)を発明し、粘土板に残している。紀元前3千年紀に入るまでには、言語や宗教的な同質性を基盤としたシュメールという統一概念が形成されていた。またシュメール人とともにセム語を喋る人々もこの文明の重要な担い手であった。メソポタミア南部は文字による記録が残される最初期からシュメール語とセム語のバイリンガル地帯であった。紀元前2700年頃には、下流域にウル、ウルク、ラガシュなど多くの都市国家が形成された。 メソポタミア文明の発達につれて、周辺地域との関係も記録に残されるようになり、相互の関係が明らかとなり始める。現在のイラン西部ではエラム人が発展した。エラム人は早くからシュメール人と接触し、古いシュメールの神話の中にはエラム人が度々登場する。これ以後、紀元前6世紀までメソポタミアの様々な王朝と互いに征服を繰り返した。 メソポタミア南部、シュメールの北方地方では古くよりセム系諸語を話す人々が優勢であった。彼らはやがて全メソポタミアを征服したサルゴンの建てたアッカドにちなみアッカド人と呼ばれる。アッカド語はオリエント全域で使われる共通語として発達した。紀元前2千年紀後半、アッカド王サルゴンはシュメールの都市国家を征服し、メソポタミア北部も征服して、初めてメソポタミア統一を果たした。アッカド帝国は中心都市をアッカドに定めて、版図を地中海やアナトリア半島まで広げた。アッカド帝国は初めて中央集権を確立したので、交通と交易は発展し、メソポタミアの経済的・文化的統一も進んだ。 勢力を誇ったアッカド帝国だが、周辺民族との戦いやシュメール都市国家の相次ぐ反乱によって消耗し、紀元前2200年頃に滅亡した。紀元前2125年頃、メソポタミア南部にあるシュメール人の都市国家ウルがメソポタミアの支配を獲得し、ウル第三王朝が建てられた。ウルは、現在知られている最も古い法典であるウル・ナンム法典を定めた。
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