初期のフィクション
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「アイン・ランド」の記事における「初期のフィクション」の解説
ランドが作家として最初に成功した作品は、1932年に映画会社ユニバーサル・スタジオに買い取られた脚本「レッドポーン」(Red Pawn)であった。ただしこの脚本は結局映画化されなかった。次に書かれた法廷ドラマ「1月16日の夜に」(Night of January 16th)は、まず1934年にハリウッドでエドワード・E・クライヴ (Edward E. Clive) によって映画化され、1935年にはブロードウェイで上演され成功を収めた。劇場版の「1月16日の夜に」では、毎晩観客の中から「陪審員」が選ばれ、陪審員の「評決」に応じ、2つ用意された別々の結末の一方が演じられた。1941年には、映画会社パラマウント・ピクチャーがこの劇の映画版を制作した。ランドはこの映画の制作に参加せず、その結果に対しきわめて批判的だった。 ランドの最初の小説は、1936年に出版された半自伝的作品『われら生きるもの』(We the Living)である。ソビエト政権下のロシアを舞台にしたこの小説は、個人と国家の対立に焦点を当てている。この小説の1959年版のまえがきでランドは、「(『われら生きるもの』は)私の小説の中で最も自伝に近い作品である。文字通りの意味での自伝ではないが、知的な意味での自伝とは言える。筋書きは創作だが、背景は創作ではない[‥‥]」と述べている。出版当初の売れ行きは悪く、アメリカの出版社はこの作品を絶版にした。ただしヨーロッパでは売れ続けた。後に『水源』等がベストセラーになったことにより、ランドは1959年にこの小説の改訂版を出版できた。以来『われら生きるもの』の販売部数は300万部を超えている。1942年にはイタリアでこの小説を元にした2部作の映画、『ノア・ビビ』(Noi vivi)および『アディオ・キラ』(Addio, Kira)が制作された。ランドはこの映画化について知らなかった。この2部作映画は1960年に再発見され、ランドの承認の下、1本の映画『われら生きるもの』(We the Living)に再編集され、1986年に発表された。 次の大作『水源』(The Fountainhead)を書いた後の休み中には、短篇小説『アンセム』(Anthem)を書いている。『アンセム』には、全体主義的な集産主義が勝利した結果、「I(私)」という言葉さえ忘れ去られ「We(私たち)」という言葉に取って代わられた、ディストピア的な未来像が描かれている。この小説は1938年にイングランドで出版されたが、アメリカでは当初この小説を出版してくれる出版社が見つからなかった。『われら生きるもの』の場合と同様、その後『水源』がベストセラーになったおかげで、ランドは1946年にこの小説の改訂版を出版できた。『アンセム』の販売部数は350万部を超えている。
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