初期のパッラーディオ主義
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「パッラーディオ建築」の記事における「初期のパッラーディオ主義」の解説
1570年、パッラーディオは著書『建築四書』を出版し、それはヨーロッパ中の建築家に影響を与えた。 17世紀、多くの建築家がイタリアで勉強してパッラーディオの作品を学んだ。外国からきた建築家はその後母国に帰り、様々な気候、地形、さらに施主の個人的な好みに合わせるようにパッラーディオのスタイルを適用した。世界中でパッラーディオ主義の分離された形態がこのようにしてもたらされた。しかし、パッラーディオ様式は18世紀になるまで、人気の絶頂には達しなかった。その後イングランド、ウェールズ、スコットランド、アイルランド、そのさらに後には北アメリカで人気が出た。ヴェネツィア自体では、パッラーディオの原則への回帰として現れたバロック建築の過剰さに対する初期の反応があった。そこでは最初期の新パッラーディオ主義者は、ドメニコ・ロッシ(1657年-1737年)と、アンドレア・ティラリ(1657年-1737年) という、どちらも石工として訓練された同時代人だった。彼らの伝記作家であるトマソ・テマンザは、パッラーディオ主義の最も有能でよく学んだ提唱者になった。彼の手でパッラーディオの施工例の視覚的な継承遺産が次第に正しいルールで体系化され、新古典主義の方向に動き出した。 いずれにしてもパッラーディオの最も影響力ある追随者は、イングランドのイニゴー・ジョーンズであり、「コレクター」であるアランデル伯爵と共にイタリアを隈なく歩き回り、1613年から1614年にはパッラーディオの論文の写しに注釈をつけた。ジョーンズとその同時代人さらには後の追随者の「パッラーディオ主義」は、大部分がファサードのスタイルであり、レイアウトを決める数値的な形式は厳密には使われなかった。ウィルトンハウスのような、1640年から1680年頃に建てられたイングランドの一握りの大きなカントリーハウスは、このパッラーディオ様式である。これらはグリニッジのクイーンズハウスやホワイトホール宮殿のバンケティング・ハウスなど、ジョーンズによるパッラーディオ様式デザインの大きな成功に従った。バンケティング・ハウスは国王チャールズ1世のためにロンドンで建設された王宮だったが、完成しなかった.。 しかし、イニゴー・ジョーンズによって提唱されたパッラーディオ様式デザインは、チャールズ1世の治世にあまりに密接に関わり過ぎたので、イングランド内戦の混乱を乗り切ることができなかった。ステュアート朝の王政復古後、ジョーンズのパッラーディオ様式は、ウィリアム・トールマン(1650年-1719年)やジョン・ヴァンブラ卿(1664年-1726年)、ニコラス・ホークスムーア(1661年-1736年)、さらにジョーンズの教え子でもあるジョン・ウェブ(1611年 - 1672年)のような建築家のバロック式デザインによって凌駕されていった。
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