分水
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/20 01:35 UTC 版)
分水(ぶんすい)とは、同一の水源あるいは水路から新たな水路を引いて灌漑や生活用水を分配すること。河川の氾濫防止のために別の水路を開いて放水することを含む場合もある。
歴史
古代から中世にかけては分水地点や用水路に水分神を祀る神社が設けられ、神社およびそこの神職・神人が分水を管理した。中世に入ると、荘園領主や在地領主に支配権が移り、更に有力農民や郷村組織に管理権が移ることになるが、この時代になると用水の分配やその実現のための手段や用水料の支払などを巡って地域間の対立(水論)も激しくなった。このため、水路の幅や水路に通じる堰や水門の開放時間が地域ごとに制約を受ける番水(ばんすい)の仕組が整備され、特に水量の少ない時期や地域においては厳密な流水量の計測と取水量の調整が行われた。だが、こうした努力をもってしても、水の確保が生産活動や日常生活に大きな影響を与えるために分水を巡る地域間の対立、特に分水に有利な上流部と不利な下流部の対立はしばしば発生し、後世においても用いられた「我田引水」の語に代表される水の争奪も珍しくはなかった。また、江戸時代に入ると、河川氾濫防止や水運振興のために分水路・排水路の構築も行われるようになるが、更なる分水は利害関係者の対立を激化させた。こうした、問題が解決されるようになるのは近代的な治水技術の導入によって河川整備が行われる明治以降のことになる。
例
- 吉野川分水(奈良県)
参考文献
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- 大谷貞夫「分水」『国史大辞典 12』(吉川弘文館 1991年)ISBN 978-4-642-07721-7
- 三浦圭一「分水」『日本史大事典 5』(平凡社 1993年)ISBN 978-4-582-13105-5
- 貝塚和実「分水」『日本歴史大事典 3』(小学館 2001年)ISBN 978-4-09-523003-0
分水
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 17:25 UTC 版)
久地から先は、各々西から根方堀、川崎堀、六ヶ村堀、久地・二子堀と呼ばれる4方向に分岐するため、久地円筒分水により各堀の灌漑面積に応じた一定の比率(7.415 : 38.471 : 2.702 : 1.675)で正確に分水される。 根方堀 最も西側を流れ、高津幼稚園の脇を通り、大山街道の栄橋で旧平瀬川と立体交差、溝口西口商店街を横切って、暗渠となる。溝の口駅の商店街から住宅地を通り抜け、武蔵新城駅付近で江川として姿を現し、現在の川崎市中原区井田付近で鶴見川水系矢上川に流入する。 川崎堀 本流の役目を果たし、現在の幸区・横浜市鶴見区方面(鶴見川以東の地域)まで潤していた。現在は河川法管轄外の普通河川として管理されている。直線的に改修された部分は「新川」と呼ばれ、旧流路は旧府中街道の南を蛇行していた。旧平瀬川と合流した二子坂戸緑道など。河川敷が整備されていて、鯉が放されている箇所もある。 六ヶ村堀 溝口、二子(南部)、諏訪河原、北見方、宮内、小杉の各地を潤した。川崎堀のすぐ隣の道(旧府中街道)沿いで、高津のNTTの近くで二手に分かれ、多摩川の水門まで続く。 久地・二子堀 久地および二子(北部)を潤した。平瀬川と少し離れたところを直線的に多摩川の水門まで続く。 現在は川崎堀のうち川崎市高津区・中原区内の流路が専ら「二ヶ領用水」と呼ばれ辿ることができるが、他の流路については1990年代までにほとんど蓋がされるか道路下に埋め込まれており(暗渠化)、流路を辿るのは困難になっている。開口していた時代は子供たちがザリガニを釣る姿が見られた。流路の概要は円筒分水に詳しい地図が掲示されている。
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