出現要因
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 19:11 UTC 版)
王位請求者が現れる理由としては、主として次のような場合が考えられる。 君主国において、それまでの王統・皇統の断絶に際して、旧王朝と血縁関係や姻戚関係にある者が請求する事例 例1:アンジュー公フィリップスペイン・ハプスブルク家の男系男子断絶に際して、フランス・ブルボン家の王子ながらスペイン・ハプスブルク家の血を色濃く引いていたことからスペイン国王候補となり、紆余曲折はあれど最終的に「スペイン王フェリペ5世」として認められた(スペイン継承戦争を参照)。 例2:バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトオーストリア・ハプスブルク家の男系男子が断絶した際に、妻がハプスブルク家出身であることを理由として神聖ローマ皇帝位やボヘミア王位を要求した(オーストリア継承戦争を参照)。 この場合、落胤を称したり生存説を唱えたりする、実際の貴種性が疑わしい請求者が出現することもままある。具体例として、リューリク朝の断絶後に皇位僭称者が次々と現れた動乱時代のロシアが挙げられよう。 簒奪や宮廷クーデター、革命による旧王朝もしくは君主制の廃絶や、他国の支配により国自体が滅ぼされるなどして廃位された君主本人やその子孫などが請求する事例 例1:イングランド王ジェームズ2世議会によって廃位されて国外追放となってからも、玉座を諦めずにイングランド王を称し続けた(ジャコバイトを参照)。 例2:フランス皇帝ナポレオン3世フランス皇帝として正式に即位するまでは、ナポレオン1世の一族としてフランス帝位請求者であった。第三共和政の樹立とともに廃位されて以降は、また帝位請求者となった。 この場合、実際の貴種性が疑わしい請求者が出現することもままある。フランス革命後のヨーロッパでは、革命の犠牲となったルイ王太子(ルイ17世)であると自称する男が100人以上も現れた。類例として、太平洋戦争後の日本において林立した自称天皇たち(その多くが、両統迭立の約束を反故にされたあげく北朝に皇位を「簒奪」された後南朝の後裔を称した)が挙げられる。 伝統的継承法の変更により継嗣の座を奪われた元相続人が、これを認めずに自らの歴史的正統性を主張する事例 例1:モリナ伯カルロススペイン国王フェルナンド7世の王太弟だったが、王位継承法の変更により女王が認められたため、相続人の座を姪イサベルに奪われた。これを不服として、兄王の崩御後に正当な国王「カルロス5世」であることを宣言した(カルリスタ戦争を参照)。 継承権を放棄したはずの者やその子孫が、放棄宣言をのちに撤回して自らの正統性を主張する事例 例1:ペドロ・デ・アルカンタラ・デ・オルレアンス・エ・ブラガンサブラジル皇族。名目上の女帝イザベル・ド・ブラジルの長男だったが、貴賤結婚のために皇位継承権を放棄した。母はペドロに代わってその弟を継承者としたが、のちにペドロは継承権を放棄していないと主張し、ブラジル帝室の(ペトロポリス系とヴァソウラス系への)分裂を招いた。 例2:アルフォンソ・デ・ボルボーン=ドス・シシリアス父である両シチリア王子カルロ・タンクレーディは、1900年12月14日に自身と子孫の両シチリア王位継承権を放棄した(⇒カンヌ証書(イタリア語版))。これはスペイン王女との結婚に際しての放棄であり、カルロ・タンクレーディは代わりにスペイン王子の称号を獲得している。しかし、のちにその子孫が両シチリア王家の嫡流となった。アルフォンソは国事詔書(英語版)級の事態であるとして家督を主張し、両シチリア王家の分裂を引き起こした。(⇒カラブリア系とカストロ系) 継承権を持ちながらも順位が低い者、継承権を持たない庶子、高貴な血統とは無関係な一般人などが請求する事例 例1:ポルトガル王ミゲル1世自由主義者(立憲主義者)に支持される姪・女王マリア2世を認めず、絶対王政の復活を掲げ、ポルトガル内戦を引き起こした(ミゲリスタ(英語版)を参照)。 例2:ヨーゼフ・アウグスト・フォン・エスターライヒハプスブルク=ロートリンゲン家の中でも継承順位の低い皇族であったが、ハンガリーに深く根を下ろしていたことから、オーストリア=ハンガリー帝国崩壊後に誕生したハンガリー王国において、存命だった最後のハンガリー国王カーロイ4世などを差し置いて新たなハンガリー国王に擁立された。 聖キリルは、『旧約聖書』の中でサウルとの血縁関係を持たないダビデがイスラエル王になっていることを根拠に、神による選択は正当性の根拠として血縁関係よりも優位にあるとした。
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