出生 - 1955年
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1955年、東京生まれ。医師である父の開業に伴い、3歳で青森に転居。中学まで青森市で過ごす。青森明の星高等学校付属ピアノ教室でピアノを習い始める。鍵盤にカミソリを立てて演奏するという厳しいレッスンだったという。 既にこの頃から「その日起きた楽しかったこと」などを、即興のピアノと歌で表現していたほか、発表会では既定の曲を即興でアレンジすることもあったという。 ザ・ゴールデン・カップスのファンになり、しばしば当時居住していた青森から、彼らがデビュー以来出演していた横浜市本牧のバー「ゴールデン・カップ」まで見物に行っていたという。 中学生のころから父親に連れられてジャズ喫茶に通う。独学でジャズを弾くようになる。 1971年 - 軽音楽部に憧れて単身上京し青山学院高等部に入学。ジャズをやるため軽音楽部に入部したものの、部ではロックばかりだったので落胆する。この軽音楽部の先輩の紹介でレストランのピアノ演奏の仕事を始める。帰宅が深夜になるため高校を中退。心配した父親が知人である安部譲二の家に居候させる。ピアノ弾きとして売れっ子になり、安部と当時の妻であった遠藤瓔子が経営するジャズクラブ「青山ロブロイ」にも出演する。 これが業界人の間で評判になり、筒美京平らに声をかけられる。 1973年 - ファーストアルバム発売を前提に、細野晴臣、林立夫らキャラメル・ママ(のちティン・パン・アレー)の主要メンバーと共にスタジオ録音を行う。結局アルバムは発売されず、一部の録音がアルバム『JAPANESE GIRL』、『いろはにこんぺいとう』、および1996年発売のベストアルバム『ひとつだけ/the very best of 矢野顕子』に収録された。この頃からセッション・ミュージシャン(キーボード、コーラス)として、アグネス・チャン、荒井由実、吉田美奈子などさまざまなアーティストのレコーディングに参加。 1974年 - バンド「ザリバ」名義で、トリオレコードよりシングル『或る日』をリリース。筒美京平が作曲、矢野誠がアレンジを担当。デビュー当時18歳。レコード会社は矢野にしか興味が無かったので、シングル1枚を発売しただけですぐに解散となる。 長男の妊娠を機に矢野誠と結婚。当時19歳。 1975年 - 小坂忠に対し、「鈴木晶子」名義で楽曲提供。 1976年 - デビューアルバム『JAPANESE GIRL』を発表。デビュー作ではA面で米国のロックバンド、リトル・フィートをバックに迎え、B面であがた森魚、細野晴臣、鈴木茂、駒沢裕城、ムーンライダーズの面々と共演。自作曲のほか、故郷青森の民謡と歌謡曲を矢野顕子流にアレンジしている。アメリカ録音では、リトル・フィートのリーダー、ローウェル・ジョージは矢野の音楽のレベルに対して自分達が十分サポートしきれなかったことをプロデューサーに泣きながら詫び、ギャラを受け取らなかった。 1977年4月より1年間、NHKのAMラジオ番組「若いこだま」のパーソナリティを担当。 8月発売のセカンドアルバム『いろはにこんぺいとう』において、シンセサイザー・プログラマに松武秀樹が参加。翌年には次作『ト・キ・メ・キ』でも松武が参加し、さらに矢野、松武ともどもイエロー・マジック・オーケストラ (YMO) にサポートメンバーとして参加することになる。 矢野はその後坂本龍一、ジェフ・ボヴァ、レイ・ハラカミらと電子音楽に傾倒していく。 1978年9月26日、「ト・キ・メ・キ」ツアーにYMOのメンバー3人が参加。YMOメンバーとの共同作業を開始する。 1979年矢野誠と離婚。 ライブアルバム『東京は夜の7時』発表。ジャケット写真は長男の風太(当時4歳)である。アルバム収録曲「カタルン・カララン」の作詞は、矢野と菊地まみと風太の3名の共作となっている。 KYLYN BAND(渡辺香津美主宰)やカクトウギ・セッション(坂本龍一主宰)、YMOの第1回ワールドツアーに参加。
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