出生 - 1940年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 14:53 UTC 版)
「マイルス・デイヴィス」の記事における「出生 - 1940年代」の解説
イリノイ州オールトン生まれ。翌年にイーストセントルイスへ転居。祖父はアーカンソー州に広い土地を持ち(マイルスの父によると「複式簿記ではアーカンソーで右に出る者はいないといわれた人で、白人たちが帳簿を直してもらいに夜陰に乗じてやってきた」という)、父は音楽家を志望していたほど音楽に造詣の深い歯科医、母はピアノとヴァイオリンをマスターし、教会でオルガンの教師をしたこともあり、姉も家でピアノを弾くという裕福かつ音楽と身近な環境で育った。13歳の誕生日に父親からトランペットをプレゼントされ、演奏を始める。高校在学中の15歳のときにユニオン・カードを手に入れ、セントルイスのクラブに出演するようになる。当時のセントルイスにはアフリカ系アメリカ人の労働者の居住区が多く、ジャズライブが定期的に行われていた。そのためマイルスは多数のジャズプレイヤーを見て学んでいた。 18歳の頃マイルスは、セントルイスにビリー・エクスタイン楽団が来たとき、病気で休んだ第3トラッペッターの代役を務め、チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピーとの共演を果たした。このときのことをマイルスは「バードとディズの演奏を聴いてても何が何だかさっぱりわからなかった」と語っている。彼はその後直ぐにニューヨークに出てジュリアード音楽院に入学(後、中退)。間もなくパーカーを探し当て、1年間同じ部屋で暮らしながら演奏を共にする。 1945年、ライオネル・ハンプトンの楽団に所属していたハービー・フィールズの録音に参加。公式な初レコーディングである。1947年には、パーカーやマックス・ローチのサポートを得て、初のリーダー・セッションを行う。 パーカーの元でのビバップからキャリアは始まったが、マイルスは新たな可能性を求め、1948年に編曲家のギル・エヴァンスやジェリー・マリガンらと出会う。ギルの協力を得て、後のウェスト・コースト・ジャズの興盛に多大な影響を与えた『クールの誕生』を制作。スイング時代に意欲的な活動を繰り広げたピアニスト兼バンドリーダーのクロード・ソーンヒルの音楽から受けた影響を発展させたものだった。その後もギルとは度々共同制作を行う。
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