内戦勃発とベイルート分裂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 06:33 UTC 版)
「レバノン内戦」の記事における「内戦勃発とベイルート分裂」の解説
1975年4月13日、ベイルート郊外南部のアイン・ルンマーネ地区にあったキリスト教会でファランヘ党の集会が行われていた際、同じく集会を終えて帰宅しようとしていたPLO支持者達を乗せたバスが教会を通りかかり、興奮した支持者らが教会に発砲、ファランヘ党側もこれに応戦して銃撃戦に発展し、27名が死亡した。この事件は、地名を取ってアイン・ルンマーネ事件(英語版)(またはバス虐殺事件)と呼ばれ、衝突は14〜15日も続き、トリポリ等の主要都市にも拡大、100名以上が死亡するなど、不毛の内戦の始まりとなった。また、同じ時期に南部の港町サイダにおいても、スンナ派の漁民とマロン派系の水産会社の間で設定した漁業権を巡って騒乱が発生した。国軍がこれの鎮圧に乗り出したものの、武装した漁民によってヘリコプターを撃墜される事件が起こり、この騒乱もイスラム教左派を煽動する事になった。この間、アラブ連盟事務総長とシリア外相の調停工作で、4月16日に一旦停戦した。しかし、5月19日深夜にベイルート東部のデクタワー地区でパレスチナ・ゲリラとファランヘ党武装グループとの戦闘が発生し、停戦は破られた。5月24日にはこの衝突の責任を取ってラシード・アッ=スルフ(英語版)首相が辞任、ヌールッディーン・アッ=リファーイー(英語版)による軍人政権が成立したが、ムスリムと左派政党が激烈な反対運動を全土に渡って展開し、僅か3日で退陣に追い込まれた。パレスチナ・ゲリラとファランヘ党との対立・抗争は、次第にファランヘ党を中心とする右派勢力と、ムスリムを中心とする左派勢力との政治的衝突という形になっていった。 戦闘そのものはライフル・機関銃・ロケット弾等による散発的なものであったが、マロン派とイスラム教・PLO双方の民兵組織は、対立する宗派の市民を次々に誘拐・拷問・処刑するという残虐行為を繰り広げた。特に週末は「ブラック・マンデー」と呼ばれ、虐殺が頻発した。車爆弾も次々にベイルート市内に置かれ、要人を含め多数の市民が殺傷された。誘拐は外国人観光客や外交員もターゲットとなった。当初は中立姿勢を保っていたドゥルーズ派も信徒が殺害された事により、マロン派と対立していく事になった。こうした事態に警察は対応できず、警官の職務放棄が相次いだ。また、政治や宗教と直接関係のない犯罪集団も跋扈し、ベイルートは無法地帯となった(PLOや各民兵組織はそれらの犯罪集団を配下に置き、彼らが強盗や誘拐の身代金などで得た金品を軍資金にしたという指摘もある)。持ち主が逃げ出して無人となった海岸沿いのホテルや観光施設は民兵組織によって占拠され、1975年10月以降、各宗派の民兵達はホテルを要塞化し、互いの陣地と化したホテル目掛けて銃砲撃を繰り返した(ホテルの戦い(英語版))。戦闘で廃墟となったこれらの高層ホテルは内戦後も放置され、ベイルートの風景として長く残り続けた。 こうした結果、ベイルートはムスリム・パレスチナ難民の多い西ベイルートと、マロン派の居住する東ベイルートに分裂した。東西の境界線には「グリーン・ライン(英語版)」とよばれる分離帯が築かれた。これはキプロス島に設置された同名の地域とは異なり中立地帯では無く、時には双方で戦闘が起こり、平常時でも周辺の廃墟に狙撃兵が潜む危険地帯であった。内戦当初は必ずしも各宗派の住み分けが明確化していたわけでなく、政治と距離を置いていた住民は仕事などでグリーン・ラインを跨いで東西のベイルートを行き来する事もあり、結果多くの一般市民が巻き込まれて死傷したといわれる。また、セルビスといわれるタクシーの運転手達は、グリーン・ラインを通る時は標的にならぬよう全速力で突っ切る事を強いられた。 こうして、大戦後に中東随一の貿易港および観光地として発展し、「中東のパリ」と謳われたベイルートは見る影もなく荒れ果てた。
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