内戦下の議会を主導
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 22:39 UTC 版)
内戦発生後は議会派の財務担当者となり、王党派と戦うための民兵と新税の必要性を唱えて反対派を説いた他、オリバー・クロムウェルら各地の有力な指揮官を議会側に引き入れた。議会に対しては指導力を発揮、内戦長期化で穏健派と急進派が揉めて分裂する事態を避けるため、穏健派が提案する国王との和睦交渉を支持する一方、戦争遂行に欠かせない財政基盤の確立にも取り組み、両派をうまくなだめて分裂を抑えた。 1643年に国王と議会穏健派の間で和睦交渉が開始されたが決裂する場合を見越し、3月に交渉の裏で王党派の財産没収を立法化、カトリックの脅威と陰謀を吹聴して危機感を煽り、2月から7月にかけて各州の財産評価および課税・消費税を始めとする課税の導入を推進、議会の財政基盤を確立した。この税制も王政復古で継続し近代国家イギリスを支えるシステムとなった。一方、7月にスコットランド国民盟約から同盟を打診されるとヘンリー・ベインら代表団をスコットランドへ派遣して盟約派のアーガイル侯爵アーチボルド・キャンベルらと交渉に当たらせ、自らは議会軍の指揮官エセックス伯ロバート・デヴァルーとウィリアム・ウォラーの対立を抑え、議会の分裂防止に努めた。この時、エセックス伯を非難して分裂を起こしかけた過激派政治家のヘンリー・マーティンは、ピムがエセックス伯を信任したため孤立、支持者にも見捨てられロンドン塔へ投獄された。 さらに9月25日にはスコットランドとの同盟交渉に成功した(厳粛な同盟と契約)。その際、全てのイングランド人に対し、同盟の遵守を通じて議会への忠誠義務を誓約させた。これは国民大衆の議会のもとにおける一致団結を求めたものであった。だが、ピムは既に癌に冒されており、12月8日に逝去。1週間後の15日にウェストミンスター寺院に葬られた。6月にピムに先立ってハムデンもチャルグローヴ・フィールドの戦い(英語版)で敗死、彼等の後を継いだベインとオリバー・シンジョン、クロムウェルがそれぞれ政治と軍事に取り組んだが、内戦に勝利するとクロムウェルが台頭、やがて革命の新たな指導者へと昇り詰めていくことになる。
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