共同競馬会社と戸山競馬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/23 15:43 UTC 版)
「共同競馬会社」の記事における「共同競馬会社と戸山競馬」の解説
陸軍・農商務省の馬匹改良の要請に加え、外国からくる賓客の接待を直接の契機として、西洋型の社交の場の競馬を意識して発足したクラブはグラント将軍の接待の為の戸山学校競馬の成功直後から会議を重ねて規則を作成し、1879年(明治12年)10月末にはメンバーは120名になり集会を開き11月5日役員を決める。幹事に松方正義と蜂須賀茂韶、副幹事に陸軍参謀長の田辺良顕、議員には陸軍から石井邦猷、野津道貫、小沢武雄、西寛二郎、保科正敬、黒川道軌、田中光顕。陸軍外では元老院から楠本正隆、外務省から鍋島直大、内務省勧農局の橋本正人。グラント将軍歓待の戸山学校競馬を執行したのは陸軍であるので初期の共同競馬会社幹事には陸軍関係者が多かった(後の共同競馬会社役員は陸軍関係者は減り宮内省や皇族・華族を始め各界の名士が増える)。共同競馬会社は競馬開催時には戸山学校競馬場を陸軍から借りて開催する形になる。共同競馬会社は本社を最初、陸軍士官の社交場だった東京の九段上の偕行社内に置き、1884年(明治17年)競馬開催地を上野に移すにあたって本社も不忍池に移転した。 共同競馬会社が主催する第一回目の競馬は1879年(明治12年)11月30日、イタリア王族ゼノアの歓待行事を兼ねて戸山学校競馬場で行われる。有栖川、北白川、伏見、東伏見、閑院の各皇族や伊藤博文、西郷従道、川村純義、他、高級官吏、高級将校、華族、各国公使などが参観に訪れ、陸軍楽隊が音楽を演奏し盛り上げた。明治天皇はこの時は参加しなかったものの200円を下賜され、レースは6番組、35-60円相当の賞品が勝者に用意された。 1880年(明治13年)松方正義の内務卿就任に伴い幹事には楠本正隆が就き楠本正隆はこののち共同競馬会社の運営を担っていく。1882年(明治15年)には蜂須賀茂韶が社長になり、蜂須賀茂韶が1883年(明治16年)フランス公使に就いたのちには小松宮が社長に就任する。 議員にも1881年(明治14年)からは大河内正質、土方久元、米田虎雄、伊達宗城、伊藤博文、岩崎弥之助、三井八郎右衛門といった名士が参加し陸軍主導から上流階級のクラブへと中心が移り、のち1884年(明治17年)に始まる屋外の鹿鳴館とも位置付けられる上野不忍池競馬につながっているのである。 共同競馬会社が主催する第二回目の競馬は、1880年(明治13年)4月の春場所で開催日も2日間に増え、レースも2日間で14番組と増えた。競馬興行として体制も整備されていき、以降、共同競馬会社主催の戸山競馬では毎年春と秋に各2日間競馬を行った。明治13年の春場所からは明治天皇も来駕され、共同競馬会社主催の戸山競馬を明治天皇は合計5回観覧される(上野不忍池競馬には7回で明治天皇は合計で12回共同競馬会社主催を観覧されている。 さらに1883年(明治16年)春場所からは一場所3日間の開催となり宮家や上流階級の観戦者も順調であり競馬の人気は高まったが、当時の戸山は交通が不便であり、さらなる発展のために上野不忍池へ競馬場を移転させる計画が持ち上がった。
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