共同競馬会社による戸山競馬
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「戸山競馬」の記事における「共同競馬会社による戸山競馬」の解説
戸山学校競馬場はグラント将軍の歓待用に作られたが、グラント将軍が帰国したのち1879年(明治12年)11月30日には共同競馬会社によって第1回戸山競馬が開催された。 共同競馬会社は幹事に松方正義、蜂須賀茂韶。議員に野津道貫、保科正敬、鍋島直大、田中光顕、石井邦猷、小沢武雄、西寛二郎、黒川通軌、楠本正隆など、旧大名、明治の元勲、政治家、高級将校などが名を連ねる会社であり、馬主にも旧大名たちや伊藤博文、西郷従道、岩崎弥之助をはじめ名士が名を連ねていた。1884年当時の競走馬は大半は内国産馬(在来の日本馬)で雑種馬も少数いたが、純粋なサラブレッドなどの西洋馬は見つけることが出来ない。馬主には外国人も多く含まれ、馬の名も電光、豊駒などの和名、アラキヤン、サンテルムなどの洋風名のそれぞれがあった。 共同競馬会社によって開催された第1回戸山競馬は日本の皇族、来日中のイタリア王国の王族、大臣参議、政府高官、軍将校など多数が集まり、11月30日12時50分に第1競走がスタート、第1競走では鹿児島産馬アラキヤンが勝利し賞品の花瓶代45円を獲得する。第1回戸山競馬初日には6レースが組まれている。 第2回戸山競馬は翌1880年(明治13年)4月17,18日の2日間開催され、第3回目は同年10月16,17日の二日間。第3回目戸山競馬の第1レースは日本馬のレースで距離は3/4周(960メートル)未勝利馬のレースが組まれ、初日、二日目ともに日本馬のレースと雑種馬のレースが混在して距離も短いもので3/4周(960メートル)長いもので1と1/4周(1600メートル)の計7レースが行われている。以後も毎年春秋に2日間開催されるが各レースの勝ち馬には賞金が100円から40円程度の金額と宮内省からの賞品などが与えられた。 1880年(明治13年)の春場所からは明治天皇も来駕され、共同競馬会社主催の戸山競馬に明治天皇は合計5回観覧される(上野不忍池競馬には7回で明治天皇は合計で12回共同競馬会社主催を観覧されている しかし、当時の戸山は交通が不便であったため1884年(明治17年)秋場所からは上野不忍池に場所を移動し、戸山での競馬は終了する。上野不忍池競馬では開催日も各場所3日間に増え1日の開催レース数も8レースと増加し観客も多く詰めかけ盛況を得る。 「上野不忍池競馬」も参照 戸山学校競馬場跡地は後には陸軍の射撃場となり、平成の現在では早稲田大学理工学部キャンパスや保善高校、戸山公園などになっている。
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