作品の受け入れと批評
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/06/14 17:19 UTC 版)
『ヤシの葉』はストウにとってベストセラーとなり、版を数回重ねられた。1968年、『フロリダ200周年』の一部として再度出版された。これは州の歴史について原稿を模写したもののシリーズだった。それが人気を博したので、それを出版している間は、働くことのできるマンダリンで求めていた平和と静けさを事実上諦めるしかなかった。『ヤシの葉』を出版した翌年、北フロリダを訪れた観光客を14,000人と報告している。出版から2年経って雑誌「ハーパーズ」のために働いていた著作家が、ストウは「数多い観光客に囲まれており、観光客は彼女が展示品ではないことを理解していないように見える」と記していた。 セントジョンズ川の岸にあったストウの家は観光地となり、ジャクソンビルからパラトカやグリーンコーブスプリングスまで客を運ぶ川船がそばを通るときは速度を緩め、船長が客にストウの家を教えていた。最後は桟橋が建設されて、客が上陸して家の窓から覗くことができるようになった。ストウ家のベランダを覆っていたオレンジの花が満開となっている枝を引っ張った者がおり、カルビンに追い払われた。ストウによからぬ敬意を抱いていた地元住民は、彼女が事業家の川船船長と協力して、観光客にポーズを取ったとまで言っていた。 ストウは、南北戦争の後でフロリダについてものを書いた数人の著者の1人だった。それまでの大半は男性であり、狩猟の可能性に集中していたが、この地域について書いた女性は、彼女たちの見たものの新規性に遭遇したことを説明するための道具として、通常は男性だった青臭い話者を使うことが多かった。ストウは単純に自分で書き、彼女の有名さ故に許されたであろうものを書いた。『フロリダの過去: 州を形作った人々と行事』を著したジーン・バーネットは次のように書いている。 ハリエットはおそらく、フロリダを国内に宣伝する際にその影響力が大きいことを十分には気付いていなかった。それを地図の先端にある曖昧なものから、招き寄せる実り豊かな熱帯の天国に転換し、その後の時代にそこに数多い者が群がって州を作り上げることになった。彼女自身は疑いも無く、足元まで平伏し敗れた兄弟の国を回復させることを手伝うキリスト教徒の行動に適したものと見ていた。フロリダの最初の宣伝者は単に善良なサマリタンだった。 『アンクル・トムの小屋』は明らかにストウの「傑作」である(ただしストウ自身はマンダリンで執筆した『オールドタウンの人々』にその資格があると考えていた)。ストウ家の歴史では、ストウがホワイトハウスを訪れた時に、エイブラハム・リンカーン大統領がストウをもてなし、「あなたのような小さな方が、この大きな戦争を引き起こしたのですね。」と言って歓迎したと伝えている。これに比べて『ヤシの葉』は小品と考えられ、ストウの作品に関する批評のカノン(典文)の中に含められることはめったにない。しかし、ストウに関する『ケンブリッジ、文学への招待』は簡潔にそれに触れており、随筆と手紙を混載したことで、「質が均一ではなく、立場が不安定になっている」と評している。より積極的な批評は、マンダリンの地元黒人についてストウの描き方に向けられた。『ケンブリッジ、文学への招待』の著者、サラ・ロビンスは、「露骨な攻撃」であると言い、ストウが、解放された奴隷は勤勉であり、彼等自身の意思で南部の再建を支援できると、読者に分からせようという試みを否定したと宣言した。それは彼らの身体的特徴(例えば年寄りカジョーをヒヒに譬えている)を媚びずに叙述することで、また彼らを監督したり世話したりすることは不要であると書くことで、否定していると主張していた。スーザン・イーカーは、ストウの見解が、黒人は新しい南部の社会的スキームにあるべきであるという、白人アメリカ人多数の考えを代表するものであることに同意している。
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