余波と影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 07:20 UTC 版)
スラヴ人トマスの大反乱の終焉を記念するミカエル2世の凱旋式が824年5月にコンスタンティノープルで執り行われた。ミカエル2世はトマスの義勇兵たち、アッバース朝から来ていた者たちと、恐らくは個人的に相当数が参加していたスラヴ人たちを処刑する一方で、キリスト教徒の生命に対する寛容と情け深さを示す必要性と、領内の平穏を回復する必要から、敗残のトマスの信奉者たちに寛大な取り扱いをせざるを得なかった。大部分はヒッポドローム(競馬場)での祭典でパレードをさせられた後に解放され、危険人物とされたものだけが帝国の遠隔地へと追放された。トマスの評判を貶めるため、ミカエル2世は「公式」かつ酷く歪められたトマスの人生と反乱についての記録を公認した。この記録はディアコヌス・イグナティオス(英語版)によって書かれ、824年に『Against Thomas』として公表された。これはすぐにこの反乱についての記録として一般に受け入れられた。 トマスには能力があり広範な支持を獲得した。そしてそれによって帝国の大部分を支配下に置いたにもかかわらず、最後には敗北した。ルメルルは彼の敗北にはいくつかの要因があったとしている。それは彼が征服し残したアジアのテマがミカエル2世に援軍を供給したこと。トマスの艦隊が失態を演じたこと。そしてブルガリア人の攻撃がコンスタンティノープルへの攻撃に集中することを不可能とし、彼の軍を消耗させたことなどである。しかし最大の要因はコンスタンティノープルの難攻不落の城壁であり、これがコンスタンティノープルを支配する皇帝を内部における簒奪以外では倒れないものとしていた。 トマスの反乱はミカエル2世治世中の「中心的な国内の事件」であったが、重要な点において深刻な被害はもたらさなかった。長期に渡り反乱軍が駐留し、そこで戦闘が行われたトラケスを除き、帝国の大部分は戦争の惨禍を免れた。ビザンツ海軍は多大な損害を被り、特に各テマの海軍は著しく損耗していたが、陸軍の損害は比較的軽微であった。伝統的に、この内乱の結果としての軍事的弱体化と国内の混乱は、ムスリムによって素早く付け込まれたと考えられている。トマスの反乱から数年後、アンダルシアを追放されたアラブ人たちはクレタ島を占領し、チュニジアのアグラブ朝はシチリアの征服(英語版)を開始した。同時に東方では、ビザンツ帝国はアッバース朝に対して防御的な姿勢を取らざるを得なかった。近年の学界では、この内戦が当時のビザンツ帝国の軍事的失敗にどの程度影響を与えたかが議論されており、ビザンツ帝国の領土失陥の原因について異なる説明がされている。ウォーレン・トレッドゴールドは、帝国の軍事力は相当素早く回復したのであり、シチリア島とクレタ島の喪失の原因としては、この反乱よりもむしろ、無能な軍事的統率と「シチリア島が遠隔に過ぎたこと、クレタ島の常備軍の不在、この二つの島に対する攻撃がほぼ同時期であったこと、ビザンツ帝国政府の長期にわたるシーパワーに対する無関心」が合わさったことが重要であると述べる。
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余波と影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 04:39 UTC 版)
北京の紅衛兵は、中国文化大革命における「赤色テロ」の起源と見なされており、上海、広州、南京、厦門などの複数の都市で紅衛兵の運動を扇動していた。これらの場所では、地元の政治指導者、知識人、教師、そして「黒五類」のメンバーが紅衛兵によって迫害され、さらには殺害された。 「赤い八月」の決定的な瞬間であった「1966年8月18日」と、ナチスドイツの「ホロコースト」の前奏曲であった「水晶の夜」との比較がある。さらに、文化大革命中の中国全土でのその後の虐殺とともに「赤い8月」は、「日中戦争」中に日本軍によって行われたとされる「南京大虐殺」と比較された。
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余波と影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/26 09:49 UTC 版)
「2010年上海マンション火災」の記事における「余波と影響」の解説
火災発生から7日目にあたる11月21日には多数の市民が火災現場に献花に訪れた。中国で「頭七」と呼ばれる死後7日目は、死者の魂が昇天する前に最後に一度家に帰ってくる日とされる。この日は週末でもあったため、上海市民多数が現場に詰め掛け、昌平路に列をなした。当局は抗議集会となることを恐れて花を持たない市民の接近を禁じたが、この日献花に訪れた人数は約1万人とも、約10万人とされる。『南都周刊』のように、この自然発生的な慰霊活動を市民精神の覚醒と報じた記事もあった。 この火災の影響で、その後上海市では火の扱いに対する警戒強化が行われ、いくつもの花火行事が中止されたり、エリアを限定して花火を打ち上げる措置が取られるケースが見られた。
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