人種の多様化と暴力と衝突
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 22:29 UTC 版)
「オマハ (ネブラスカ州)」の記事における「人種の多様化と暴力と衝突」の解説
鉄道や精肉業等での職を求めてオマハへと集まった移民は、やがて市の至るところにエスニック・エンクレーブを形成していった。アイルランド系はサウスオマハ地区にシーリータウンを作った。サウスオマハにはまた、イタリア系のリトル・イタリーやチェコ系のリトル・ボヘミアも作られていった。一方、ドイツ系はユダヤ系や南部から流入したアフリカ系と共にニアノースサイド地区に住み着いた。とりわけドイツ系は、一時期隆盛を誇ったオマハのビール醸造業の発展に寄与した。19世紀後半に入ると、オマハの上流階級はミッドタウン地区内のゴールドコースト地区やフィールドクラブ地区、ノースオマハ地区内のベミスパーク地区やカウンツェプレイス地区に集住するようになった。彼らは、造園家ホーレス・クリーブランドが設計した並木道で、市域中に広がる公園を巡って回った。 19世紀末から20世紀初頭にかけてのオマハの治安は悪く、ギャンブルや飲酒、売春が横行した。こうした行為は最初は赤線地区であったバーント地区で、後にスポーティング地区で流行った。1890年頃からオマハを牛耳っていたボス、トム・デニソンの後ろ盾を得ていた犯罪集団は、デニソンの配下で、1906年に市長に就任し、その後8期にわたって務め、「恒久的な」市長とまで呼ばれた、「カウボーイ・ジム」ことジェームズ・ダールマンの庇護下で勢力を伸ばしていた。1881年のミズーリ川大洪水のような自然災害も、この街の暴力を鎮めることはできなかった。1882年に起きたキャンプ・ダンプ・ストライキでは、暴徒化した労働者を鎮圧するために州の民兵が動員され、全米的な注目を集めた。州知事はバーリントン鉄道のスト破り労働者を守るために、近隣のフォート・オマハに駐屯している合衆国陸軍に出動要請をしなければならなくなった。合衆国陸軍は防衛のためにガトリング砲やカノン砲を配備した。このストライキでは死者1人、重軽傷者数人を出した。1891年には、ジョー・コーというアフリカ系の荷物運搬夫が白人の少女を強姦したとして、集団リンチ事件が起きた。1900年には、地元精肉王の15歳の息子、エドワード・クダヒーが誘拐される事件が起こり、全米的な騒動になった。 そこに人口の急増、住宅の過密化、そして職を求める競争の激化によって、オマハの人種間・民族間の緊張は高まっていった。20世紀に入る頃には、新しい移民に対する暴力がしばしば疑念や恐怖をもたらした。また、労働闘争が激化するにつれて、オマハの経営者はアフリカ系の労働者をスト破りとして雇用するようになり、これも人種間の緊張を高めることになった。1909年には、警官がギリシャ系住民に殺害されたことへの報復として、3,000人の白人男性・少年がサウスオマハ地区のギリシャ系集住地区で暴動を起こし、集住地区を破壊した。1913年の復活祭の日曜日に起きた竜巻では、ミッドタウン地区の大部分に加えて、市のアフリカ系集住地区の大部分が破壊された。1919年には、「赤い夏」と呼ばれる、全米的に人種暴動が頻発した中で、アフリカ系労働者ウィル・ブラウンが白人女性を強姦したとして、オマハでも暴動が起きた。暴徒はサウスオマハ地区からダグラス郡庁舎へ行進し、囚人をあぶり出すために郡庁舎に火を放ち、100万ドルを超える損害を出した。その後、暴徒はブラウンを吊るして射殺し、最後はその遺体を焼いた。この暴動を鎮圧し、サウスオマハへこれ以上人が集まらないように、そしてノースオマハのアフリカ系住民を守るために、フォートオマハから軍が出動した。 オマハにおける公民権運動は1912年、ミシシッピ川以西では初めて全米黒人地位向上協会の支部がオマハに置かれた時に遡る。1947年には、クレイトン大学で、主に同学の学生とアフリカ系のカトリック信者が集まって、公民権運動団体デポレス・クラブが結成された。1960年代後期になると、ブラックパンサー党が勢力を増し、公民権運動がアフリカ系民族主義へと発展していった。
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