人種の障壁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 08:35 UTC 版)
中川は、排日感情が高まっていた1910年代のアメリカにおいて、雪洲は「白人と互角に主役を張って、アメリカ社会に根を下ろしたただひとりの日本人俳優」だったと評している。垣井は、雪洲が鶴子とともに「良くも悪くもアメリカ人の日本人に対するイメージの原型を創った」と述べている。1918年の『ムービング・ピクチャー・ワールド』誌には「早川の役柄は彼の人種の代表で、彼の民族を(米国人が)理解するのに貢献している」と書かれており、宮尾もアメリカで「俳優個人としての早川に与えられたイメージが日本人の象徴と見なされた」と指摘している。しかし、それゆえに雪洲の作品は、ステレオタイプ的な描写で日本人の誤ったイメージを与えているとして、日本人から強く批判された。1922年に『キネマ旬報』は、雪洲の主演映画全般を「白色人種特に米人等に了解できぬ為か彼の取扱ふ東洋精神は常に浅薄なものである」と批判した。 白人社会のハリウッドにおいて、黄色人種のアジア人俳優は悪役や白人俳優を引き立てる脇役を演じることしかできず、白人スターと同じような役柄で扱われることがほとんどなかった。雪洲は上山草人やアンナ・メイ・ウォンをはじめとする戦間期の非白人の人気俳優の中で、マチネー・アイドルとして主役を張れたただひとりの俳優ではあったものの、あくまでも正義のヒーローではなくて悪役でスターになった。中川は、排日ムードが濃くなる時代では、黄色人種は悲劇的に描かれなければならなかったと指摘している。また、当時のアメリカ人から見て、日本人は中国人などの他の非白人と同じように扱われたため、雪洲も他の日本人俳優と同様に、日本人以外の非白人を何度も演じた。さらに、1922年に作られ始めた映画製作者の自主倫理規定ヘイズ・コードによって、映画で異人種間結婚を描くことが禁じられたため、それ以後は雪洲のステレオタイプな役柄を与えること自体が制度的に不可能となった。
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