人種のはざまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 14:32 UTC 版)
アポロ・シアター出演8月2日バディ&クリケッツにとって最初の大規模なツアーがスタート。80日間のスケジュールの中にアポロ劇場での一週間が含まれていた(8月16日〜22日)。1934年の開場以来黒人エンターテインメント最高のステイタスとされるこの劇場に白人の出演記録は無い。しかし同名の黒人コーラス・グループ「ザ・クリケッツ」と混同したプロモーターが誤って「白いクリケッツ」をブッキング、かくてバディ&クリケッツは白人による最初のアポロ出演として名を残すことになった。 9月ツアー一行116人を乗せる2台のバスはメイソン・ディクソン・ラインを越え北部から南部に入った。アトランタを経由しニューオリンズに入る国境線でバスはパトカーに呼び止められる。「警官は『ニューオリンズの州法により白人と黒人が同じステージに立つことは出来ない。』と言います。そして2台のバスは96人の黒人と20人の白人に振り分けられ、街に着くと別々のホテルに宿泊させられました。私達はステージに上がる事は出来ず予定外の休暇となりました」(ニキ・サリヴァン) 9月27〜28日「メイビー・ベイビー」録音。ノーマン・ペティは録音の機会を待っていた。コーラル、ブランズウィックの2社からそれぞれ1枚づつLPレコードをリリースするため最低でも必要な20曲を揃えるための新録音が求められていたからだ。ノーマン・ペティの回想。「私のトリオ(ノーマン・ペティ・トリオ)はサウンドトラック制作のためオクラホマ・シティに滞在していました。ツアー中のバディと連絡を取ると二日間の休暇があると言いました(上記ニューオリンズでのトラブルを指す)。それならばと私は彼らと合流しスタジオ、オフィサーズ・クラブを一晩借り録音しました。その後ニューメキシコでバック・コーラスとエコーを加えマスターを完成させました」「ザットル・ビー・ザ・デイ」のヒット以降スタジオ録音はツアーやTV出演のスケジュールの合間を縫うようにして行われるようになる。 11月、「ペギー・スー」2位(R&B2位)、同月「オー・ボーイ!」10位、2曲のトップ10を叩き出す。 11月27日、LP「ザ・チャーピング・クリケッツ」リリース。 12月1日、「エド・サリヴァン・ショー」出演。 12月、ニキ・サリヴァン、過酷なツアーを理由にクリケッツ脱退。
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