二人の聖職者の来日と井川忠雄の活躍
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「日米交渉」の記事における「二人の聖職者の来日と井川忠雄の活躍」の解説
「若杉要#『米国共産党調書』発行」も参照 日米交渉は民間外交を起点として、その後に正規の外交ルートに乗せられたという経緯を持つ。その発端は、1940年11月25日、アメリカからメリノール宣教会のジェームズ・ウォルシュ司教とジェームズ・ドラウト神父が来日したことであった。両師は元ブラジル大使沢田節蔵と、近衛文麿首相に近い産業組合中央金庫(現・農林中央金庫)理事井川忠雄に宛てた紹介状をそれぞれ持参しており、彼らの紹介で各方面の要人と面談した(その中には松岡洋右外相や武藤章軍務局長ら日本の高官も含まれていた)。両師の目的は日米関係改善にあり、その背後にはフランクリン・ルーズベルト大統領の側近であるフランク・C・ウォーカー(英語版)郵政長官がいた。 翌1941年(昭和16年)1月に帰国したウォルシュとドラウトは、23日、ハル国務長官、ウォーカー、ルーズベルトに経過を報告し、「日本提案」なる覚書を提出した。その内容は三国同盟の破棄、中国における停戦、極東モンロー主義の承認、米国との経済関係の回復というものであったが、これは正式な日本提案ではなく、両師が日本側の意見をまとめたに過ぎないものであった。このときのルーズベルトの態度は明らかではないが、ハルは懐疑的であり、反対にウォーカーは乗り気であった。ウォーカーとウォルシュ、ドラウトの構想は日米協定を結ぶことにより日本政府内の穏健派を支持し、日本の政策を対独結合から対米協調へと転換させようとするものであったが、ハル(および国務省)は日本では穏健派が軍部を抑えることはありえないと判断しており、温度差があったのである。 ともかく、ルーズベルトとハルは、両師が私的に日本側と接触することを容認しつつ、政府としての行動は新任の野村吉三郎大使着任まで待つこととした(野村の着任は2月11日)。その背景には、アメリカのアドルフ・ヒトラーの脅威に対する世界戦略、すなわち大西洋第一主義(ドイツ打倒を優先)・対日戦回避があり、ルーズベルトもハルも日米会談の門戸を開けておくことに異存はなかった。 一方、帰米後のウォルシュ、ドラウトの日米国交調整工作は井川を介して、近衛首相、武藤軍務局長、松岡外相に伝えられていた。この工作は近衛と武藤の関心を引き、米国側の意向を瀬踏みするため、2月に井川が渡米した。そして、後続として武藤の部下である岩畔豪雄軍事課長が3月に渡米することも内定した。武藤、岩畔の思惑は、アメリカを利用した支那事変の解決にあり、日本にもアメリカと「太平洋の平和」を取引する動機があったのである。 27日、井川はウォルシュ、ドラウトと再会し、両師からウォーカーを紹介された。ウォーカーは日米関係が微妙な状況では民間人有志の外交が有効であると説き、ルーズベルトとハルへの連絡役を買って出て「三者で協議を進めて日米国交を正常化する方法を決めてほしい」と井川を激励した。しかし、そもそも両師は井川の政治的立場を見誤っており(井川を近衛首相の非公式代表と捉えていたが、井川は近衛から米国側の意向を報告してほしいと依頼されたに過ぎなかった)、ウォーカーも井川を正式な権限を与えられている日本の全権代表と誤解してルーズベルトに報告するなど、日米交渉には当初からコミュニケーション・ギャップがつきまとっていた。なお、28日に井川は野村大使を訪問し経過を報告している。 井川とドラウトは協定案の作成に着手し、3月13日にはウォーカーからハルに三国同盟からの日本の脱退、太平洋の平和の保障、中国の門戸開放、中国の政治的安定、軍事的・政治的侵略の不可、共産主義拡大阻止などの内容について作業中との覚書が提出された。ウォーカーは、日本政府が井川・ドラウトの協定案に同意しているかのように報告したが、その内容は日本政府の立場と相異なり、井川の独走と言えるものであった。
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