二人の路線の乖離
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 07:26 UTC 版)
1960年頃から、劇画が隆盛し、少年誌もそれまでよりもずっと対象年齢が高い漫画を中心に載せるようになった。 1968年(昭和43年)に『ビッグコミック』で安孫子は『黒イせぇるすまん』を発表。それまでも風刺色の強い漫画をしばしば発表していたが、本作を機に社会人向けの漫画に本格的に取り組むようになる。また少年漫画においては1972年に連載を開始した『魔太郎がくる!!』『ブラック商会変奇郎』などの怪奇漫画を執筆。その他に安孫子の趣味であるゴルフを生かして『プロゴルファー猿』といった大作も生まれた。 一方、藤本は基本的には児童漫画に専念していた。しかし劇画隆盛の中、『ウメ星デンカ』や『モジャ公』など思うように人気が出ず悩んでいたと言われる。少年漫画誌が青年読者の獲得に力を入れる中、『週刊少年サンデー』編集部に、ゴンスケをサラリーマン化した新作を提案されたが、藤本は「私は最近の読者層の変質についていけません」とこれを拒否している。そんな中、1970年(昭和45年)に『ウメ星デンカ』の後作として『小学館の学習雑誌』にて連載が開始された『ドラえもん』の人気が小学生の間で徐々に上がっていく。またSF短篇作品を多数発表しており、こちらは青年漫画雑誌、SF専門誌などでも発表した。 二人が合作を取り止め、それぞれの作品に専念するようになったことは、コンビ解消まで積極的には公言していなかった。たとえば、1977年初版の自伝『二人で少年漫画ばかり描いてきた』では、安孫子はどちらの作品も「僕たち」の作品と表現している。また、作中に作者本人が描かれる時も、二人揃って登場することが多かった。そのため、実際には自分の執筆では無い作品について取材を受けたり、コメントをすることもあった。しかし、両者の作風の違いは徐々に読者にも知られるようになり、安孫子は「黒い藤子」、藤本は「白い藤子」とあだ名されるようになった。
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