二・二六事件での死とは? わかりやすく解説

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二・二六事件での死

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 05:01 UTC 版)

松尾伝蔵」の記事における「二・二六事件での死」の解説

松尾の妻の稔穂(としお)は、岡田啓介の妹である。義兄である岡田昭和9年1934年7月に第31内閣総理大臣に就任すると、松尾は、岡田傍ら働きたい、と岡田申し出た松尾全ての公職辞し、「内閣嘱託内閣総理大臣秘書官事務取扱」の辞令を受け(無給)、首相官邸住み込んで岡田秘書務めようになった岡田は、松尾について下記のように回想している。 松尾はわたしの妹の婿で、なんというか、非常に親切な男だった。その親切には少しひとり決めのところがあって、私が静かにていたいときでも、なにかと立ちまわって世話をやくというふうな性質だった。 — 岡田啓介二・二六事件直前選挙で、岡田松尾地元である福井であった選挙応援演説行った松尾について、 福井で「おれは岡田大将に似ているだろう。このごろはひげの刈り方まで似せているんだ」と言っていたそうだが、いつも一緒に暮らしているわたしから見れば似ているもなにもあったものではない。まるで別人だ。しいて言えば二人とも年寄りであるということ似ているくらいのものだった。 — 岡田啓介松尾岡田義弟であり、特に血縁関係はなく、よって二人似ているはずもない。岡田1868年1月21日生まれ二・二六事件の時は満68歳松尾1872年9月18日生まれで満64歳岡田によると、岡田は頭を五分刈りにしていたが、松尾はほとんど禿げ上がっていたという。 二・二六事件発生した昭和11年1936年2月26日未明松尾岡田と共に首相官邸にいた。栗原安秀林八郎対馬勝雄らが指揮する重機関銃軽機関銃小銃ピストル武装した歩兵第1連隊将兵300午前5時頃に官邸襲撃し警備警官4人を殺害した後、日本間にいた松尾中庭据えた重機関銃射殺した栗原らは岡田首相殺害したものと勘違いした押入れ隠れていた岡田首相翌日脱出した首相官邸襲撃した反乱部隊の上等兵戦後詳細な手記残し銃撃受けて未だ息があった松尾様子を、下記のように述べている。 満身創痍血だらけになって(中略敷居ママ)に腰を落し断末魔の呻きをあげながらも、姿勢崩さず端然としていた老人の姿は、実に立派なもので、今でも忘れられない凄惨極まりないその姿に、兵隊誰しも手を下そうとしなかった。 — 反乱部隊の上等兵、(中略)と(ママ)は出典のとおり、 上等兵の手記によると、上等兵栗原命令受けて「老人」拳銃止めをさした。敷居ママ)に座り込んでいた「老人」は、止め拳銃弾を、眉間に1発、胸部に1発それぞれ受けて前に崩れ落ちた中庭積もったは、「老人」の血で赤く染まった一方栗原らの反乱部隊が、松尾殺害し、さらに松尾遺体見て岡田殺害した誤認した経緯について、岡田次のように述べている。 松尾は、首相官邸侵入した反乱部隊が、警護警察官たち射殺した後、首相官邸中庭にいる所を反乱部隊発見され集中射撃受けて死亡した事件後の検視結果では、十五発ほどの銃弾体内入っており、胸や顎には銃剣えぐった跡があるという凄惨な状態であった居室就寝中に反乱部隊襲撃遭い機敏に隠れて難を逃れた岡田は、松尾射殺された少し後で松尾遺体見つけた反乱部隊兵隊たちが「ここに誰か死んでおるぞ」「じいさんだ。これが総理大臣かな」と言い交しているのを、隠れ場所から聞いた兵隊たちは、庭から松尾遺体岡田居室上げ岡田布団横たえた。そして、居室欄間にかけてあった岡田肖像画の額を、小銃装着した銃剣突き上げての上落としたが、その際銃剣の先で額縁ガラス突き岡田の顔の眉間中心に大きなヒビ入り肖像画良く見えなくなった興奮している反乱部隊面々は、松尾遺体の顔と、ガラス入った大きなヒビ良く見えない岡田肖像画の顔を、形式的に見比べただけで「遺体岡田である」と判定した岡田下記のように述べている。 松尾をわたしとまちがえたのは、松尾というもう一人のじじいが官邸にいるとは、さすがの反乱軍思いおよばなかったためかもしれない。 — 岡田啓介、 そして、自ら熱望して無給義兄たる岡田秘書となり、日頃から覚悟してたように岡田身代わりとなって生を終えた松尾対し岡田次のように謝意述べている。 わたしとしては、松尾のやってくれたことについてはありがたかった、という気持があるだけだ。 — 岡田啓介岡田松尾母校であり、松尾陸軍退いて帰郷した後に教育会長を務めた福井市旭小学校で、1936年昭和11年3月7日松尾葬儀執り行われた。 同小学校校庭には、岡田のために自らを犠牲にした松尾称えて胸像建立された。一方内閣総理大臣務め太平洋戦争大東亜戦争)の回避終結のために尽力した岡田銅像全身像)は、福井市中央公園建立された。いずれも雨田光平作品である。離れて位置していた松尾岡田銅像は、2016年10月2人生地である福井市旭地区内に位置するJR福井駅東口広場移設された。 2019年現在毎年松尾祥月命日である2月26日に、松尾胸像の前で、旭地区の子供たちも参列して献花祭が執行されている。 2019年現在福井市旭小学校公式サイトには、大先輩である岡田松尾について、児童たちに絵を交えて分かりやすく伝える「岡田啓介 松尾伝蔵 物語」が掲載されている。

※この「二・二六事件での死」の解説は、「松尾伝蔵」の解説の一部です。
「二・二六事件での死」を含む「松尾伝蔵」の記事については、「松尾伝蔵」の概要を参照ください。

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