二・二六事件と宇垣組閣の失敗とは? わかりやすく解説

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二・二六事件と宇垣組閣の失敗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 13:47 UTC 版)

元老」の記事における「二・二六事件と宇垣組閣の失敗」の解説

西園寺満州国承認国際連盟脱退には反対であったが、世論支持するこれらに反対して、元老権威失墜することを怖れていた。西園寺世論落ち着くまで宮中国際協調派である天皇牧野らを守ろうとし、そのためにも元老権威失墜することは防がなければならなかった。1933年昭和8年)には首相選定への内大臣関与限定的にするよう制度改め牧野攻撃対象から外そうとした。さらに内閣総理大臣前官礼遇受けた者と枢密院議長構成される重臣会議」も奉答関与させることとなった1934年昭和9年5月斎藤内閣倒れると、西園寺牧野及び重臣である清浦奎吾高橋是清若槻礼次郎、そして斎藤首相一木枢密院議長くわえて協議することとなった牧野清浦のみを加えるのが適当であるとしたが、西園寺政党総裁である若槻加えるべきとした。この協議によって岡田啓介海軍大将奏薦され、岡田内閣成立した天皇機関説事件岡田首相一木枢密院議長牧野内大臣への圧力が強まると、西園寺激励して岡田内閣存続させ、一木枢密院議長辞任先送りした。しかし牧野健康上の問題もあって辞職した。しかし岡田内閣宮中グループ対す反発残り1936年昭和11年)に二・二六事件勃発した。この事件では牧野、そして牧野後任である斎藤内大臣鈴木侍従長襲撃対象となり、斎藤内大臣死亡し鈴木侍従長重傷負った事件受けて一木枢密院議長湯浅倉平宮内大臣後継内大臣近衛文麿推し内々接触すすめていた。また内大臣不在となったことで後継首相選定に関して枢密院議長内大臣代わり務めということ天皇上奏し、裁可得た。これらは西園寺無断行われたことであり、西園寺軍部に近い近衛宮中入れるべきではないと考えており、湯浅後継内大臣推した西園寺勅使受けないまま、電話依頼を受けるという異例の形で上京し選定方式には同意したが、一木推す平沼枢密院副議長には反対し、近衛推薦するべきと押し切った。しかし近衛健康上の問題理由として受けず広田弘毅後継となった1937年昭和12年)、広田内閣辞表提出すると、湯浅内大臣百武三郎侍従長広幡忠隆侍従次長松平康昌内大臣秘書官長木戸幸一皇后大夫協議し今回重臣意見聞かず内大臣が一旦下問を受け、西園寺のみに下問するべきと奉答するという従来の手続きとられることとなった湯浅参考として枢密院議長となった平沼意見聞いたものの、西園寺宇垣一成朝鮮総督陸軍押さえられる判断し宇垣推薦した。しかし陸軍宇垣反発し陸軍大臣を出さなかった。宇垣宮中威光借りてなんとか内閣成立させようとしたが、失敗すれば宮中への反発取り返しつかないものとなると判断した西園寺天皇積極的に支援することはなかった。結局宇垣大命拝辞することとなった宇垣辞退後、西園寺第一に平沼枢密院議長第二林銑十郎大将推薦し平沼辞退したため首相となった西園寺湯浅内大臣対し以後後継首相下問奉答関わること辞退する意向伝えた気力失い政界にほとんど関与するともなくなっていった

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