二・二六事件と宇垣組閣の失敗
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「元老」の記事における「二・二六事件と宇垣組閣の失敗」の解説
西園寺は満州国承認や国際連盟脱退には反対であったが、世論が支持するこれらに反対して、元老の権威が失墜することを怖れていた。西園寺は世論が落ち着くまで宮中の国際協調派である天皇や牧野らを守ろうとし、そのためにも元老の権威が失墜することは防がなければならなかった。1933年(昭和8年)には首相選定への内大臣関与を限定的にするよう制度を改め、牧野を攻撃の対象から外そうとした。さらに内閣総理大臣の前官礼遇を受けた者と枢密院議長で構成される「重臣会議」も奉答に関与させることとなった。1934年(昭和9年)5月に斎藤内閣が倒れると、西園寺は牧野及び重臣である清浦奎吾、高橋是清、若槻礼次郎、そして斎藤首相と一木枢密院議長をくわえて協議することとなった。牧野は清浦のみを加えるのが適当であるとしたが、西園寺は政党総裁である若槻も加えるべきとした。この協議によって岡田啓介海軍大将が奏薦され、岡田内閣が成立した。 天皇機関説事件で岡田首相、一木枢密院議長、牧野内大臣への圧力が強まると、西園寺は激励して岡田内閣を存続させ、一木枢密院議長の辞任を先送りした。しかし牧野は健康上の問題もあって辞職した。しかし岡田内閣や宮中グループに対する反発は残り、1936年(昭和11年)に二・二六事件が勃発した。この事件では牧野、そして牧野の後任である斎藤内大臣、鈴木侍従長も襲撃対象となり、斎藤内大臣は死亡し、鈴木侍従長も重傷を負った。事件を受けて一木枢密院議長と湯浅倉平宮内大臣は後継内大臣に近衛文麿を推し、内々で接触をすすめていた。また内大臣が不在となったことで後継首相選定に関して、枢密院議長が内大臣の代わりを務めるということを天皇に上奏し、裁可を得た。これらは西園寺に無断で行われたことであり、西園寺は軍部に近い近衛は宮中に入れるべきではないと考えており、湯浅を後継内大臣に推した。西園寺は勅使を受けないまま、電話で依頼を受けるという異例の形で上京し、選定方式には同意したが、一木が推す平沼枢密院副議長には反対し、近衛を推薦するべきと押し切った。しかし近衛は健康上の問題を理由として受けず、広田弘毅が後継となった。 1937年(昭和12年)、広田内閣が辞表を提出すると、湯浅内大臣、百武三郎侍従長、広幡忠隆侍従次長、松平康昌内大臣秘書官長、木戸幸一皇后大夫が協議し、今回は重臣に意見を聞かず、内大臣が一旦下問を受け、西園寺のみに下問するべきと奉答するという従来の手続きがとられることとなった。湯浅は参考として枢密院議長となった平沼に意見を聞いたものの、西園寺は宇垣一成朝鮮総督が陸軍を押さえられると判断し、宇垣を推薦した。しかし陸軍は宇垣に反発し、陸軍大臣を出さなかった。宇垣は宮中の威光を借りてなんとか内閣を成立させようとしたが、失敗すれば宮中への反発が取り返しのつかないものとなると判断した西園寺や天皇は積極的に支援することはなかった。結局宇垣は大命を拝辞することとなった。 宇垣の辞退後、西園寺は第一に平沼枢密院議長、第二に林銑十郎大将を推薦し、平沼が辞退したため林が首相となった。西園寺は湯浅内大臣に対し、以後後継首相の下問と奉答に関わること辞退する意向を伝えた。気力も失い、政界にほとんど関与することもなくなっていった。
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