二・二六事件〜鈴木貫太郎襲撃〜
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「安藤輝三」の記事における「二・二六事件〜鈴木貫太郎襲撃〜」の解説
詳細は「鈴木貫太郎」を参照 事件3年前の1933年(昭和8年)に、安藤は日本青年協会の富永半次郎や青木常磐と共に鈴木貫太郎邸を訪問し、時局について話を聞いた事があり面識があった。 鈴木は安藤に親しく歴史観や国家観を説き諭し、安藤は大きな感銘を受けた。面会後、安藤は鈴木について「噂を聞いているのと実際に会ってみるのでは全く違った。あの人(鈴木)は西郷隆盛のような人で懐の深い大人物だ」と語っている。後に鈴木は座右の銘にしたいという安藤の要望に応えて書を送っている。事件に際して安藤は鈴木を一時的に監禁することで済ませることはできないかと考えていた。 決起に対しては慎重な態度を取り続け、あくまで合法的闘争の道を主張したため、磯部らは一時安藤抜きでの計画を検討した。しかし、安藤は最終的に成功の見込みが薄いとは知りながらも、同志を見殺しにすることをよしとせず、直前の23日になって参加を決断した。だが反乱に巻き込まれた部下達は、後に忌避され前線に送られ死ぬ者が多かった。 決断後は積極的に同志を集め、叛軍中最大勢力である歩3を統率して見せた。歩3からは全反乱部隊の総兵力の60%が参加した。 午前5時頃に鈴木貫太郎を襲撃した。はじめ安藤の姿はなく、下士官が兵士たちに発砲を命じた。鈴木は三発を左脚付根、左胸、左頭部に被弾し倒れ伏した。血の海の中となった八畳間に安藤が入ると、「中隊長殿、とどめを」と下士官の一人が促した。安藤が軍刀を抜くと、部屋の隅で兵士に押さえ込まれていた鈴木の妻・たかが「お待ちください!」と大声で叫び、「老人ですからとどめは止めてください。どうしても必要というならわたくしが致します」と気丈に言い放った。 安藤はうなずいて軍刀を収めると、「鈴木侍従長閣下に敬礼する。気をつけ、捧げ銃」と号令し、たかの前に進み出て「まことにお気の毒なことをいたしました。我々は閣下に対しては何の恨みもありませんが、国家改造のためにやむを得ずこうした行動をとったのであります」と静かに語った。 たかの「あなたはどなたです」の問いに官職もなにも付けず「安藤輝三」とのみ答えたと伝えられる。この後、女中にも自分は後で自決をする意思を伝え、兵士を引き連れて官邸を引き上げた。 鈴木は安藤処刑後に「首魁のような立場にいたから、止むを得ずああいうことになってしまったのだろうが、思想という点では実に純真な、惜しい若者を死なせてしまったと思う」と記者に対して述べている。また「安藤がとどめをあえて刺さなかったから自分は生きることができた。彼は私の命の恩人だ」とも語っている。
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