岡田啓介首相とは? わかりやすく解説

岡田啓介首相

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:22 UTC 版)

二・二六事件」の記事における「岡田啓介首相」の解説

内閣総理大臣退役海軍大将岡田啓介天皇大権掣肘する「君側の奸」として襲撃対象となる。 全体指揮栗原安秀中尉執り第1小隊栗原中尉自身が、第2小隊池田俊彦少尉が、第3小隊林八郎少尉が、機関銃小隊尾島健次郎曹長率いた。 まず正門立哨警戒巡査武装解除され、異変察知して飛び出した外周警備巡査6名も続いて拘束された。しかしこの間邸内警備土井清松巡査総理秘書官身辺警護役の松尾伝蔵退役陸軍歩兵大佐とともに岡田総理寝室から避難させ、村上嘉茂左衛門巡査部長廊下警戒当たった。また裏門詰め所では、小館喜代松巡査特別警備隊事態急報する非常ベルを押す一方清水与四郎巡査邸内入って裏庭側の警備当たった非常ベルの音を聞いて襲撃部隊殺到するのに対し小館巡査拳銃応戦したものの、全身被弾して昏倒した(後に警察病院収容されたものの、午前7時30分、「天皇陛下歳」の叫び最後に殉職)。また清水巡査は、裏庭側から避難試みた岡田総理一行押しとどめたのち、非常避難口守ってやはり殉職した。 廊下を守る村上巡査部長数分渡って襲撃部隊銃撃戦演じたものの、全身被弾しつつ一歩一歩追い詰められ、ついに中庭追い落とされ殉職した。この間邸内引き返した岡田総理女中部屋押入れ隠され松尾大佐と土井巡査はあえてそこから離れて中庭出たところを襲撃部隊遭遇松尾大佐は射殺され土井巡査拳銃弾尽き林八郎少尉組み付いたところを左右から銃剣刺突され、殉職した。しかしこれらの警察官抵抗の間に岡田総理隠れることができ、また、襲撃部隊松尾大佐の遺体見て岡田総理誤認目的果たした思いこんだ。 松尾大佐の遺体見た襲撃部隊が、岡田総理殺害した誤認した経緯については「松尾伝蔵#二・二六事件での死」を参照 一方遺体松尾のものであることを確認し女中たち様子から総理生存察知した福田耕総理秘書官迫水久常総理秘書官らは、麹町憲兵分隊小坂慶助憲兵曹長青柳利之憲兵軍曹および小倉倉一憲兵伍長らと奇策練り、翌27日岡田同年輩弔問客官邸多数入れ反乱部隊将兵の監視の下、変装させた岡田退出者に交えてみごと官邸から脱出させた。

※この「岡田啓介首相」の解説は、「二・二六事件」の解説の一部です。
「岡田啓介首相」を含む「二・二六事件」の記事については、「二・二六事件」の概要を参照ください。

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岡田国太郎と北里柴三郎北里柴三郎は国太郎より8年年長だが、東京大学医学部では国太郎が入学する1879年から、北里が卒業した1883年までのおよそ4年間を共に同じ学舎で学んだ。1890年国太郎は、ドイツ留学に際しコッホ研究所での研究を希望し、この希望は既に同研究所で指導的立場にあった北里のコッホ宛推薦により叶えられた。国太郎がコッホ研究所にて学び始めた直後、後藤新平も北里の推薦で同研究所に入った。北里はドイツに不慣れな国太郎、後藤と行動を共にすることも多く、「ある日三人でポツダム宮殿の庭園 を見に行った時、後ろから「おはよう」と声を掛けられ、驚いて振り返ったところドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が立っていた。北里は既に破傷風菌の研究でドイツ国内でも名を知られており、三人が自己紹介した時、皇帝も北里の名をご存じであった。また北里は留学歴も長くドイツ語に堪能していたことから、皇帝への答えは全て北里が行い、岡田・後藤は直立不動の姿勢で畏まっていた。」とのエピソードが伝えられている。北里は、国太郎帰国の一年前、1892年に日本に戻った。北里と後藤は絶えず陸軍医務局と対立する立場にあり、それは帝国大学医学部・文部省・陸軍医務局と内務省との対立であった。対立の発端は、北里が留学時代に東大医学部の恩師であると共に北里留学の労を取った、緒方正規の「脚気菌」発見を否定したことに始まる。当時、日本医学会で高い権威を持っていた緒方に対する北里の反論は大問題となり、医学的判断を下せる者がいない日本国内で、北里への攻撃は忘恩・不徳と言う言葉に終始した。北里への攻撃は、帝大医学部を中心に文部省・帝大医学部と関係が深い陸軍医務局に飛び火した。帰国後どこからも支援を受けられない北里は、ようやく福沢諭吉から支援を得ることができ、伝染病研究所を立ち上げた。その後、伝染病研究所を巡る内務省と文部省の所管争い、およびそもそもの発火点である脚気原因を巡る争いが根深く続いた。なお福沢諭吉の恩に報いるため北里は慶應大学医学部の初代学部長となり、国太郎の弟岡田満が発足時の初代歯学科教授に招かれた。ペスト菌

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