教育総監時代
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1934年(昭和9年)1月教育総監に就任、天皇機関説問題では国体明徴運動を積極的に推進し率先して天皇機関説を攻撃した。 齋藤内閣でも引き続き陸相を務めていた荒木は、皇道派青年将校に自重を求めたため声望が低下し昭和9年に病を理由に辞任した。 その後任候補として真崎の名が挙がった。林銑十郎教育総監と柳川平助陸軍省次官からの推薦に対して、真崎を嫌っていた閑院宮載仁親王は、「真崎では不安心だから林にすべし」と述べたため林が陸相に、真崎は教育総監に回った。 陸相となった林は軍務局長の要職に統制派の永田鉄山少将を起用した。林は皇道派に属すると見られており、真崎もこの人事に賛成したが、永田は皇道派の締め出しを図り、荒木、真崎らに嫌悪感を抱くようになっていた林もこれを追認した。 皇道派と統制派の板挟みになった林は一時辞意を表した。真崎は電話で荒木と林追い落としの相談をしてるのを高宮太平に聞かれ、高宮を部屋に通した夫人と女中を殴りつけ、高宮に黙っていてくれと懇願している。 派閥間の対立はさらに先鋭化し、統制派は真崎の更迭を目論むようになった。林陸相から辞任して欲しいと言われた真崎はこれを拒否し、陸軍三長官会議で決することになった。真崎は林のことを蛇蝎の如く嫌っており、日記には「林」と書かず、わざわざ「土蜘蛛」と書いている。北岡伸一(歴史学者)はこれを読んで「何か背筋の寒くなる思いがした」という。 真崎の評判は極めて悪く、会議の直前に岡田啓介首相は林陸相に対して「内閣が倒れてもいいから真崎だけは辞めさせてくれ」と伝えている。 1935年(昭和10年)7月に参謀総長閑院宮載仁親王臨席で開かれた会議でも真崎は辞任に応ぜず、激怒した閑院宮から叱責される場面もあった。 真崎は本人が同意しないまま教育総監を罷免され、後任には渡辺錠太郎がついた。 昭和天皇も真崎の更迭を歓迎し、「真崎の行動は甚だ非常識であり(ロンドン海軍軍縮会議で強硬論を主張し内閣を揺さぶった)加藤寛治海軍大将と同じような性格ではないのか」と述べて、真崎の退任の挨拶に際しても形式的な「ご苦労であった」との御言葉を与えるのを「加藤のように悪用されては困る」と承知しようとしなかった。 真崎の辞任の経緯は自身の口から青年将校へ漏らされ、さらに統制派を批判する怪文書が作られて配布された。 この文書を読んだ皇道派の相沢三郎陸軍中佐は、1934年に起きた陸軍士官学校事件の影響も受け、同年8月に永田鉄山を殺害した(相沢事件)。 真崎自身によると、軍中央から遠ざけられた三月事件、十月事件の関係者は真崎らを恨み、政界、財界、重臣方面に真崎らを誹謗しており真崎追放を決心し、特に湯浅倉平が天皇に真崎中傷を行い、閑院宮と梨本宮の両者も動かされ、教育総監更迭に至ったとしている。 本庄繁侍従武官長から天皇に上奏書類を非公式にご覧に入れて、天皇も「真崎の言うことも一理ある」とおおせられたが、湯浅の中傷、木戸幸一が真崎の直訴を阻止したために、天皇の考えを変えさせるに至らなかったと主張している。
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