教育総監時代とは? わかりやすく解説

教育総監時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 03:58 UTC 版)

真崎甚三郎」の記事における「教育総監時代」の解説

1934年昭和9年1月教育総監就任天皇機関説問題では国体明徴運動積極的に推進し率先して天皇機関説攻撃した齋藤内閣でも引き続き陸相務めていた荒木は、皇道派青年将校自重求めたため声望低下し昭和9年に病を理由辞任したその後候補として真崎の名が挙がった林銑十郎教育総監柳川平助陸軍省次官からの推薦に対して真崎嫌っていた閑院宮載仁親王は、「真崎では不安心だからにすべし」と述べたため陸相に、真崎教育総監回った陸相となった軍務局長要職統制派永田鉄山少将起用した皇道派属すると見られており、真崎この人事に賛成したが、永田皇道派締め出し図り荒木真崎らに嫌悪感を抱くようになっていたもこれを追認した。 皇道派統制派板挟みになった一時辞意表した真崎電話荒木追い落とし相談をしてるのを高宮太平聞かれ高宮部屋通した夫人女中殴りつけ、高宮黙っていてくれと懇願している。 派閥間の対立はさらに先鋭化し、統制派真崎更迭目論むようになった陸相から辞任して欲しと言われ真崎はこれを拒否し陸軍三長官会議決することになった真崎のことを蛇蝎如く嫌っており、日記には「林」と書かず、わざわざ「土蜘蛛と書いている。北岡伸一歴史学者)はこれを読んで「何か背筋寒くなる思いがした」という。 真崎評判極めて悪く会議直前岡田啓介首相陸相に対して内閣倒れていいから真崎だけは辞めさせてくれ」と伝えている。 1935年昭和10年7月参謀総長閑院宮載仁親王臨席開かれた会議でも真崎辞任応ぜず激怒した閑院宮から叱責され場面もあった。 真崎本人同意しないまま教育総監罷免され後任には渡辺錠太郎がついた。 昭和天皇真崎更迭歓迎し、「真崎行動甚だ常識であり(ロンドン海軍軍縮会議強硬論主張し内閣揺さぶった加藤寛治海軍大将同じよう性格ではないのか」と述べて真崎退任挨拶に際して形式的なご苦労であった」との御言葉与えるのを「加藤のように悪用されては困る」と承知しようとしなかった。 真崎辞任経緯自身の口から青年将校へ漏らされ、さらに統制派批判する怪文書作られ配布された。 この文書読んだ皇道派相沢三郎陸軍中佐は、1934年起きた陸軍士官学校事件影響も受け、同年8月永田鉄山殺害した相沢事件)。 真崎自身によると、軍中央から遠ざけられ三月事件十月事件関係者真崎らを恨み政界財界重臣方面真崎らを誹謗しており真崎追放決心し、特に湯浅倉平天皇真崎中傷行い閑院宮梨本宮両者動かされ教育総監更迭至ったとしている。 本庄繁侍従武官長から天皇上奏書類非公式にご覧入れて天皇も「真崎の言うことも一理ある」とおおせられたが、湯浅中傷木戸幸一真崎直訴阻止したために、天皇考え変えさせるに至らなかったと主張している。

※この「教育総監時代」の解説は、「真崎甚三郎」の解説の一部です。
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