中澤不二雄とは? わかりやすく解説

中澤不二雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/10 22:32 UTC 版)

中澤 不二雄
1952年、野球解説者時代
基本情報
国籍 日本
出身地 滋賀県
生年月日 1892年11月23日
没年月日 (1965-06-09) 1965年6月9日(72歳没)
選手情報
ポジション 遊撃手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
野球殿堂(日本)
殿堂表彰者
選出年 2002年
選出方法 特別表彰

中澤 不二雄(なかざわ ふじお、1892年明治25年〉11月23日 - 1965年昭和40年〉6月9日)は、滋賀県出身の野球選手内野手)・監督・野球解説者パシフィック・リーグ元会長。

来歴・人物

神戸中学校を経て荏原中学校に進む。明治大学野球部時代、現在のアジア競技大会の原点である「極東オリンピックマニラ大会」(1913年)の日本代表に選ばれ、名遊撃手として活躍。

その後造船会社へ就職したが、野球を忘れられず、1922年には、翌年プロ野球球団であることを宣言する天勝野球団の一員として活動。1923年には満洲(現・中国東北部)の満洲鉄道会社(満鉄)に就職し、社会人野球チーム「大連満洲クラブ」(満鉄の社員を中心に編成)でプレイングマネジャー(選手兼任監督)を歴任。

西鉄ライオンズ設立時には監督候補としてオファーを受けるが辞退した。(鬼塚格三郎(元小倉高校監督)も辞退したことで、三原脩が招聘された)[1]

戦後は野球解説者としてプロ野球を中心として活躍。1951年新日本放送(現・毎日放送)のラジオ中継、並びに1953年から数年間、日本テレビ放送網のプロ野球専属解説者として活躍した。

その後1959年2月に太平洋野球連盟(パシフィック・リーグ)の専任会長第1号に就任。同年6月に開かれた天覧試合巨人阪神戦)において昭和天皇皇后への解説を担当した。

パリーグ会長に在任中の1965年、南海杉浦忠の1500奪三振表彰の出席のため訪れていた神戸市内の旅館にて、脳出血で死去。72歳没[1][2]

2002年野球殿堂特別表彰者に選ばれた。

脚注

  1. ^ a b 益田啓一郎『伝説の西鉄ライオンズ』海鳥社。 
  2. ^ 長嶋茂雄さん出演回は視聴率が「跳ね上がった」…立大時代から110回以上出演した番組「ミユキ野球教室」”. スポーツ報知 (2025年7月10日). 2025年7月11日閲覧。

関連項目

解説者として出演していた番組(現行タイトル)
司会

著書

  • 『ぼくらの野球』山の木書店 1948
  • 『プロ野球』旺文社スポーツ・シリーズ 1953
  • 『これが野球だ 監督の作戦・選手の心理』光文社カッパ・ブックス 1960
  • 『少年少女体育全集 野球』吉崎正巳絵 ポプラ社 1960
  • 『野球の図鑑』小島直 等絵 講談社の学習大図鑑 1960
  • ベーブ・ルース』編 霜野二一彦絵 小学館 ジュニア版伝記全集 1963
  • 『プロ野球 遺稿』オリオン社 1965

外部リンク

先代
専任職移行前
パシフィック・リーグ会長
1959 - 1965
次代
松浦晋




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