中心部 Recinto複合とその周辺の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/18 03:55 UTC 版)
「テオパンテクアニトラン」の記事における「中心部 Recinto複合とその周辺の変遷」の解説
I期は-1423±112BP、-1390±126BPの年代が得られたサンプルによって位置付けられ、後者のサンプルは、その時期の公共的ないしは儀礼的な用途に用いられた建物の壁や床面に使われた特徴的な黄色っぽい粘土に含まれていたもので、その建物が機能した時期の下限を示す時期の指標となりうるものである。具体的にはおおむね紀元前1200年から同1000年に当たる時期とされる。この時期には、Recinto複合に高さ1.2m、短辺26m、長辺32mの長方形のプランをもつ土製の建造物が築かれた。その建造物の内側には半地下式「中庭」が造られたが、II期に改造されている。建物の表面は、前述したように黄色っぽい粘土とつき固められた土によってつくられた。 I期の建物が建設された時期にすでに南側の階段を様式化したジャガー神の顔を表現するように造ったようである。 II期は、紀元前1000年から同800年の時期で、-844±58BP、-822±117BPの年代が得られたサンプルで位置付けられる。Recinto複合では、土製建造物を石灰岩のブロックを用いて覆って築かれている。建物の床面に設けられた溝の壁面にもそのようなブロックが用いられている。この建造物の内側には、18.6×14.2mに達する半地下式「中庭」が設けられ、その半地下式「中庭」をめぐるような回廊状の構造になっている。特筆すべきなのは、半地下式「中庭」の壁面に、北東隅、北西隅、南東隅、南西隅にそれぞれ、2,3,1,4号の逆T字型の推定3tに達するであろう巨石をもちいた記念碑が据え付けられたことである。これらの記念碑には辰砂を含む赤い顔料が塗られ、オルメカ様式独特の口を「へ」の字にして、上下の顎から牙を生やし、胸に「X」字の「紋章」をつけ、つりあがったアーモンド状もしくは「水滴」状の目を持つ様式化したジャガー神の顔を刻んでいる。ジャガー神は、たいまつ状、もしくは植物状のものを両手に持っている。 半地下式「中庭」の内部には、7×3mの小規模な建造物が平行してならび球戯場であったと考えられている。春分の日になると北東の石彫、すなわち2号記念碑と南西の石彫(4号記念碑)の影が日の出と日没時に球戯場の中央部に伸びるように配置されている。 この4つの石彫と半地下式「中庭」については、4基の石彫は、マヤ文明に先行して世界の四隅を表す擬人化された山で、世界を担う神々であるとともに、四柱の対立している神々であって、神格化された球戯者として太陽の運行を支配し、再現すると考える研究者もいる。 半地下式「中庭」のある建物の南側中央には対になる階段があり、東西方向へ降るようになっている。その階段を降り切った位置には両脇にいわゆる「炎の眉」のモチーフをもつジャガー神と推察される猫形神の頭部がつけられた欄干(親柱)がある。 なお、この時期のRecinto複合の北側には、平石で3号建造物が造られている。 II期にはA群の西側の谷部分に築かれたわき水や山から流れてくる水をためるダム様の構築物が造られた。このダム様の施設の近くからは墓が発見されており、玄室にはすでに疑似アーチの技術が用いられていた。このダム様の施設につながるように幅70-90cm、深さ0.9-1.5mの水路が、高さ1.2-1.9m、幅50-75cm、厚さ20-40cmの石灰岩のブロックで築かれ、蓋石がされた。この水路の長さは100mに及んだ。この水路の用途は、農耕地の灌漑のためと考えられている。 III期は、紀元前800年から同600年頃であるが、III期とIV期を細分する場合は、III期を-790±42BPのサンプル年代により、紀元前800年から同700年とし、IV期を、-683±69BP、-610±12BPのサンプル年代から、紀元前700年から同500年に位置付ける。本稿では前者の考えにしたがうものとする。 III期の建造物は、加工をあまりほどこさない粗製の石材が多用されたことに特徴がある。A群の境界部分に6基の建造物が造られ、Recinto複合の中心部分は、II期の建物の壁面を利用したテラスにされ、北側に6×55m増築された。このテラスの壁面にはレリーフが施されているのが確認できる。東側と西側には、なにも刻まれていない石ブロック様の岩が石碑のように立てられ、その「石碑」の前には、それぞれガマガエルを刻んだ石彫(祭壇)が置かれている。この「石碑」と祭壇の組合せは、イサパやさらに後の古典期マヤにつながると考える研究者もいる。これを裏付けるかのようにイサパやグアテマラ高地との関連性をうかがわせる人頭像がテラス壁面にとりつけられている。 西側の「石碑」の北側と南側から成人1体、子ども4体の埋葬が検出されている。成人の埋葬は土器1点を伴っていた。子どもの埋葬には、真珠ガキでつくられた幾何学的な装飾品が伴い、近くにある犬の埋葬にも同様な装飾品が伴っていた。また、子どもの埋葬のうち1体に接して、肉食獣の遺骸が2体発見された。 拡張部分の東側には、II期の建造物を覆って24.6×19.5mで高さ2.5mに達する3号建造物がII期のダムにつながる水路を覆い、かつその水路の一部からもってきたと推察される巨石ブロックをもってきて築いている。V字の両脇に3個の円形石塊を置き、長い石ブロックでV字をつくり、その上に3個の円形石塊を置く。6.0×30cmの壁龕も設けられた。この3号建造物は2号建造物と対になって球戯場になっている。 II期に築かれた巨大な灌漑水路の近くに、II期とは異なった大きさや形の石ブロックを用いて2つのピラミッド状構築物が築かれた。「ピラミッド」の壁面に用いられた石ブロックには棒状のものと斑点もしくは円形のものがある。また石ブロックを二重のV字状にならべており、これはタバスコ州のラ・ベンタをはじめとし、ゲレロ州ではチャルカツィンゴにもみられるオルメカ遺跡の建造物で頻繁にみられるもので、大地と水を象徴するガラガラヘビに関連するモチーフとみる研究者も多い。 またIII期には、Recinto複合の北側900mの地点に、南北78.3mに達する大規模な球戯場が造られたことも確認されている。
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