世紀の大失速
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「1964年のメジャーリーグベースボール」の記事における「世紀の大失速」の解説
フィラデルフィア・フィリーズは、9月20日時点で150試合を消化して90勝60敗、勝率.600で残り12試合で2位のレッズとカージナルスに6.5ゲーム差をつけていた。ところがこの最終盤でまずレッズに3連敗、次にブレーブスとの4連戦に4連敗、続くカージナルスとの3連戦を全て落とし、10連敗を喫した。ここでカージナルスがトップとなり、最後のレッズ戦は2連勝して盛り返したが時すでに遅く、逆転優勝を許してしまった。フィリーズはこの年の大半をリーグ首位を確保して一時は2位に10ゲーム差をつけていた。このシーズン前にタイガースからジム・バニング投手をトレードで獲得して、バニングと若手の左腕クリス・ショートがエースとして投手陣を牽引し、ほかにアート・マハフィー、デニス・ベネット、レイ・カルブが揃って両リーグでも最も層が厚い投手陣であった。守備には強力な二遊間コンビがいてルーベン・アマロ遊撃手にトニー・テイラー二塁手が揃い、三塁にはこの年に新人王を獲得したディック・アレンが並び鉄壁の内野陣と言われ、打ってはジョニー・キャリソン右翼手が主軸でさらに8月初めにメッツから巨漢一塁手フランク・トーマスを獲得して打線も強化した。ところが、9月8日にフランク・トーマスが親指を骨折してベンチを離れ、投手のアート・マハフィーが乱調で以後監督の信頼が無くなり、さらにほぼ同じ頃にレイ・カルブが肘を故障し、デニス・ベネットは肩を痛め、あれほど厚いように見えた投手陣の層が急に薄くなった。9月20日にロサンゼルスでの対ドジャース戦でジム・バニングが18勝目を挙げて、残り12試合で本拠地フィラデルフィアに戻った時に7連戦が予定されていたので地元は1950年以来14年ぶりの優勝ムードに沸いて、ワールドシリーズの前売り券の準備に入っていた。ただ試合日程は休みなしで毎日あり、投手のローテーションが難しくなっていた。 その本拠地での最初の試合にジーン・モーク監督は不安のあるアート・マハフィーを9日ぶりに先発出場させたが0-1で敗れた。相手の1点は本盗での1点であった。ワールドシリーズの前売り券の発売が開始された次の22日に左腕クリス・ショートが乱打されて連敗しゲーム差が4.5になった。翌23日にデニス・ベネットが肩の痛みをおして登板したが4-6で3連敗して3.5ゲーム差。翌24日エースのバニングが中3日で登板したが3-5で4連敗して2.5ゲーム差。次の25日は左腕クリス・ショートが中2日で登板して5連敗して1.5ゲーム差。翌26日の土曜日はナイターでアート・マハフィーが中4日で投げたが6連敗し、とうとう0.5ゲーム差となった。次の日曜日(9月27日)にはフィリーズに十分休養をとった投手はおらず、バニングが志願して中2日で登板したがブレーブスに滅多打ちされて8-14で7連敗しレッズが91勝目を挙げて首位に立った。2位フィリーズが90勝、3位にカージナルスで89勝。フィリーズは地元フィラデルフィアでの7連戦で1勝も出来なかった。次の日に休みなしでセントルイスに飛んでカージナルスとの試合に臨んだ。カージナルスにとって急に優勝の可能性が出てきてムードは良かった。9月28日に左腕クリス・ショートが中2日で登板し相手のカージナルスは中3日でボブ・ギブソンが出てきて、もはやフィリーズの打者は元気なく1-5で8連敗し、一方カージナルスは6連勝。次の29日にはジーン・モーク監督は重症の腱炎で乱調のデニス・ベネットを登板させた。もはや先発させる投手がいなかったのだが、相手のカージナルスのブルペンにいたカート・シモンズはこのベネットのマウンドを見てすぐに異変を感じ、肩を壊したベネットを起用するのは狂気の沙汰だと思った。ベネットは2回ももたず降板し9連敗、カージナルスは7連勝しレッズが敗れたため首位に並んだ。9月30日、ジム・バニングが中2日で登板しカート・シモンズと投げ合ったが5-8で敗れて10連敗しカージナルスは8連勝で91勝となりレッズが連敗したため、この日にシーズン初めて単独首位に立った。 そして残るカードはカージナルスは最下位メッツで、フィリーズは首位争いしているレッズであった。しかし10月2日、フィリーズが対レッズ戦に左腕クリス・ショートを中3日で登板させて相手のエラーから逆転して4-3で91勝目となり、同じ日にカージナルスは対メッツ戦に必勝でエースボブ・ギブソンを登板させながら1-0で敗れる波乱があり、しかも翌3日に同じメッツに連敗してしまい、最終10月4日にレッズ対フィリーズとカージナルス対メッツのカードが組まれていたが、もしレッズもカージナルスも敗れると、フィリーズも入って3球団が92勝で並び3球団による史上初のプレーオフの可能性があり、ナショナルリーグ事務局は3チームによる複雑なプレーオフの日程作りに入った。そして最終日にフィリーズはジム・バニングが中3日で登板しレッズを10-0で下し92勝目を挙げ、カージナルスはメッツを11-5で破り最終戦で93勝に達しリーグ優勝を飾った。2位フィリーズとレッズが92勝で0.5ゲーム差であった。 もしフィリーズが10連敗のうち1勝でも勝っていたら、この時に38歳で若いジーン・モーク監督が最初から捨てる負け試合をしてバニングやショートに休養を十分に取らせていたらという議論はその後も続き、9月の30日間で1日も休みが無かった試合日程も原因の一つとされたが、バニングとショートを中2日で先発させたジーン・モーク監督の采配も批判され、モークは「負けたのは君たちのせいではない。私の責任だ。」とすべてが終わってから自らの非を認めた。30年後にジャーナリストのデイヴィッド・ハルバースタムが著書『さらばヤンキース ~運命のワールドシリーズ~』 (原題 OCTOBER 1964)の中で、このフィリーズの失速を詳細に書いているが、当時のエースで30年後に連邦下院議員となったジム・バニングにインタビューした時にバニングは『後から考えれば休養を取って登板すべきだっただろう。今なら誰が考えてもそうだろう。しかしあの時の感情は、よし2日しか休んでなかっても出ていって投げてやろう、と思って当然なんだ。』と語り、この時の2週間で起きたことを理解するのはその場に居合わせて優勝争いの中で気持ちの高ぶりと様々な感情に浸らなければ無理だとして、高いレベルの運動選手の思考様式、すなわちこの状況で勝てるのは自らの強い意志の力だけだという信念を理解しなければならないと述べている。 この年の終盤のフィリーズの混乱は世紀の大失速としてメジャーリーグの歴史に長く記憶されている。
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