世紀の対決
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 07:18 UTC 版)
直接対決が実現したのは、11月1日火曜日のピムリコ競馬場であった。支配人のヴァンダービルトは、前年ウォーアドミラルが勝ったピムリコスペシャルをマッチレースの場として提供することで、両者の同意を取り付けた。この際にリドルは、負担斤量を双方120ポンドにすること、因縁のある発走委員を外すこと、また発走はバリヤー導入以前の手旗式の発走で行うことを条件とし、ヴァンダービルトとハワードもこの条件を了解した。 開催を火曜日に設定したのは、ピムリコ競馬場の収容人数は15,000人が限界で、それを超える観客数が予想されていたからであった。しかし、当日にはそれを遥かに超える観衆が集まり、10時に競馬場が開くとどっとなだれ込み、正午には4万人を超える観客でひしめいていた。マッチレース当日のオッズではウォーアドミラルが人気を集めて、先行すれば有利なウォーアドミラルが内枠を引いたこともあり、単勝1.25倍の1番人気に推された。 スタートが切られると、シービスケット鞍上のジョージ・ウルフは鞭を入れて、ウォーアドミラルから先手を奪った。ウォーアドミラルはシービスケットの2馬身後ろを追走し、バックストレッチで追い上げていった。追いつかれるとウルフはわざと内側を開けて、ウォーアドミラルをインに圧迫しようとしたが、カートシンガーもそれを読んで外に持ち出し、並んだままコーナーを回っていった。そして、直線を向いてからシービスケットがウォーアドミラルをどんどん突き放し、ウォーアドミラルは最終的に4馬身の差をつけられて敗れた。レース後、カートシンガーはコメントを求められると泣きながら「俺に何が言える? 俺たちじゃとにかくダメだったんだ。ウォーアドミラルはあいつに追いつき、あいつの目を見た。でもシービスケットは諦めようとしなかった。俺たちは全力を尽くして戦った。でも、それだけじゃ足りなかったんだ」と語った。コンウェイ調教師はノーコメントを貫いた。 この決戦は、後に「Match Race of the Century(世紀の対決)」と称され、2006年にブラッド・ホース誌がアメリカ競馬史の重大事件をランキングした『Horse Racing's Top 100 Moments』では、この対決がブリーダーズカップ創設に次ぐ第2位に位置付けられた。 ウォーアドミラルはマッチレースの敗戦後も競走を続行した。ナラガンセットパーク競馬場のロードアイランドハンデキャップ(9ハロン)ではシービスケットともう一度対戦する可能性があったが、ウォーアドミラルよりも3ポンド重いハンデを課されたシービスケット陣営は回避している。ウォーアドミラルは同競走を勝って同年を締めくくると、5歳シーズン初戦をハイアリアパークの一般戦(7ハロン)の勝利で迎えた。その後ワイドナーハンデキャップの連覇を目指していたが、2月の調教中に足首を故障し休養、そのまま引退に至った。 総合成績26戦21勝、生涯獲得賞金は273,240ドルで、勝者総取りとなったマッチレース以外では賞金を逃すことがなかった戦績であった。
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